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望月喜市 『日ロ平和条約締結の活路──北方領土の解決策』
ブックレット・ロゴスNo.11

望月喜市 日ロ平和条約締結の活路──北方領土の解決策
2015年10月10日刊行
四六判 92頁 1000円+税
ISBN978-4-904350-38-6 C0031
表紙写真:井口義友

著者紹介

日ロ平和条約締結の活路──北方領土の解決策:目次

序 章
第Ⅰ章 日ソ・日ロ交流の永い歴史
     ──照る日・曇る日そして雨降る日
 1 日ロを巡る交流の歴史
 2 漂流民を巡るドラマ
 3 ロシアにおける日本研究と対日関心
 4 日本におけるロシア研究と対ロ関心
 5 帝政ロシアとの戦争とその帰結
第Ⅱ章 戦後の日ロ経済交流
第Ⅲ章 北方領土問題の発生
     ──サンフランシスコ講和条約と日ソ共同宣言
第Ⅳ章 日ロ返還交渉の経緯を見る
第Ⅴ章 平和条約への四つの障害
 1 日ソ中立条約の違反
 2 不法占拠論
 3 固有領土論と特措法の改定
 4 シベリア抑留
第Ⅵ章 変貌する四島とビザなし交流
 1 千島開発計画と北方四島の変貌
 2 ビザなし交流の質的変化
 3 交流に関する様々なネジレ現象
第Ⅶ章 安倍首相は日ロ平和条約の締結に成功するか?
 1 好調だったスタートダッシュ
 2 急坂を転がり落ちた安倍外交
まとめ 「二島プラス共同利用」で解決可能

付録:北方四島の基礎知識
参考文献
筆者の関連著作その他関連文献

  はしがきから

 本書は北方領土問題に長く取り組んできた論考をベースに集約したものです。「領土問題を解決して平和条約を結ぶ」という課題を解決することは、引っ越しの出来ない隣人ロシアとの気持ち良く永くおつきあいする上で不可欠のものです。ロシアとの交流はアメリカとの付きあいより永いのです。
 第Ⅰ章では日ロを巡るロマンや演劇、研究、漂流民のドラマなど、なつかし発見、驚きの感動、思わず涙する悲劇などを扱っています。一方では遅れて登場した帝国同士として、かなり長期にわたって日ソは戦争を続けてきました。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の歴史を見る思いです。
 第Ⅱ章では、以前出版した『太平洋新時代の日ソ経済』をベースに記述しました。1956年の「日ソ共同宣言」以後、日ソ貿易は、日ソ通商条約と貿易支払協定の締結で急激に増大しました。無資源国日本が最も近い極東からの資源輸入と開発資材の輸出など、相互補完貿易をベースにして70年代から80年代にかけ拡大しました。極東・シベリア貿易はまさに日本の独壇場でした。
 第Ⅲ章ではサンフランシスコ講和条約と日ソ共同宣言によって、北方領土問題が生まれたことを書きました。この段階で賢明な交渉をしていればその後半世紀にわたる領土問題はなかったはずです。有名な〝ダレスの恫喝〟も北方領土を人質として沖縄基地を維持する米国の戦略でした、そして現在もこの〝ダレスの罠〟から日本は抜け出すことが出来ないのです。
 第Ⅳ章では、日ロ返還交渉の経過を考察しました。
 第Ⅴ章では、日本の四島返還論を支える論拠は、実は空洞化していることを示したもので、歴史の真実を理解していただきたく思います。
 第Ⅵ章ではクリール開発計画とビザなし訪問を取り上げました。四島では開発計画が実を結びつつあり、島は見違えるようにきれいになっています。ロシア要人の訪問の度に日本の外務省は空しい抗議を続けていますが、日本の外務省の無力化をさらけ出すだけです。むしろ四島住民の生活水準が上がることを喜んであげたらどうでしょか。その方が返還にとっていい効果を出すのではないでしょうか?
 最後の第Ⅶ章は安倍晋三首相が公言する、自分の任期中に平和条約を締結してみせるという情勢を分析しました。好調にスタートしたプーチン大統領との蜜月関係も、2015年4月の訪米以降急速に悪化し、プーチン大統領の年内訪日の可能性は限りなくゼロに近づいています。
 最後に平和条約解決の切り札は「東郷和彦とアレクサンドル・パノフとの共同提案」(10〜11頁参照)であると結論づけました……つづく

  序 章 から

 なぜ日ロ平和条約は戦後70年間も締結できなかったのでしょうか? 四島返還交渉はマスコミで報道されますが平和条約締結については無関心のようです。締結へのドライブを低速状態にしても痛みを感じない交渉担当者がいるかもしれません。実現可能性がない四島返還要求の旗を降ろさないで、100年でも未解決のまま待ったらいい、というグループもいます。さらに四島問題が解決しない方が、論文のネタや職業を失わないで済む、という人達もいるという指摘もあります。
 こうした感覚的な問い以外にも、国際的に日本が署名した書類を検討すると四島要求は日ロ間の約束に違反していると考えられるのです。
 1945年7月26日、ポツダム宣言は米国、中華民国、英国(ソ連は遅れてこれに参加)によって作成され、このなかで日本の降伏条件が通知されました。この宣言の第8条では「カイロ宣言」(1943年11月27日)の条項を踏まえ、日本の主権が及ぶ範囲が指示されました。日本は8月14日「ポツダム宣言」の受諾を決定しました。8月15日天皇は終戦の録音放送を行い「ポツダム宣言」の受諾を国民に告げました。9月2日降伏文書に日本は正式に署名。このなかで日本は連合国(米英ソ中)に対し無条件降伏し、「ポツダム宣言」を誠実に履行することを約束させられました。
 1951年9月8日サンフランシスコ講和条約に日本は署名し、連合国に対し千島列島の領有権を放棄、連合国との戦争状態を終結しました。これにソ連が署名しなかったため、1956年10月19日「日ソ共同宣言」を締結、国交の回復と戦争状態の終結をしましたが、国境の画定に関し合意できなかったので平和条約を結べませんでした。調印したこの文書には「平和条約締結後二島(ハボマイ、シコタン)を引き渡す」と記載されました。
 以上、日本は、サ条約で北方四島を放棄するとの文書に署名し、国会が批准したのです。つまり四島要求は、商売でいえば契約書に印を押していながら、契約を変えて欲しいと言っているに等しく、国際的義務違反であり、往生際の悪さをさらけ出しているのです。どうしても四島でなければ納得しないなら一旦二島で平和条約を結んだあと、適当な時期に交渉再開をロシアに申し込むのがスジでしょう。
 何しろ相手は四島を実効支配し、何年でも現状のまま待つことは可能ですが、攻める側の日本は、問題の解決を一日千秋の思いで待っている高齢化した元島民の方々を初め、四島との貿易の実施や漁業領域の拡大で自立経済を希求する根室管区の方々、四島のインフラ改善に他国並みに資本参加できない不満を持つ日本の民間業者は焦りを感じていますが、外務省は四島要求の旗を降ろそうとしません。しかし四島の返還要求は上述したように、国際的義務違反です。潔く四島の旗を降ろし、交渉相手のロシア側の提案にしたがって、「二島返還プラス共同利用」で妥協すれば、70年間放置された平和条約も明日にも締結できるのです。
 日ロ漁業交渉や貝殻島昆布漁では、平和条約がないという壁の前に、その実現を主導した高碕達之助氏は苦戦を強いられました。現在では、平和条約がない状態が日常化され、条約が締結された後の可能性のある世界を想像できなくなっています。
 平和条約締結後のメリットの一つの事例を考えてみましょう。平和条約があれば、おそらく双方のビザ発給はずっと簡素化され、90日以内の観光や商用はビザ免除で、ロシアへも日本へも入国できるようになるでしょう。現に日本と米国、カナダ、韓国、豪州そのた多くの国の間では90日以内であればビザ免除で入国できます。短期のビザ免除国一覧はこちらをご覧ください……つづく

著者紹介

望月喜市(モチヅキ キイチ)
1931年(昭和6年)4月、静岡市生まれ。
立命館大学、小樽商科大学を経て、北海道大学スラブ研究センターを1994年に定年退職。北大とロシア科学アカデミー極東支部経済研究所の2カ所の名誉教授。
1967年『計画経済と社会主義企業』で一橋大学から博士号を授与される。
1968年、APN(ノーボスチ通信社)主催の図書コンクールに優勝し3週間ロシアへ招待された。
1993年から1年3カ月モスクワ大学経済学部に文部省派遣研修生として滞在。カントロビッチ(1912─86、1978年に線型計画の研究でノーベル経済学賞受賞)の研究に没頭した。
定年退職後は「日ロ北海道極東研究学会」を創設、現在は「NPO法人ロシア極東研」と改称。その初代理事長。
2013年春、ロシアの数理計画経済の研究で瑞宝中綬章を受章。
著作・論文・評論・URL記事など多数。本書の参考文献リスト参照。
連絡先:du7k-mczk@asahi-net.or.jp