親鸞・ウェーバー・社会主義 書評:堀田 泉
感受性の潜勢力──村岡到『親鸞・ウェーバー・社会主義』を読む
1 方法態度
本書の「まえがき」で著者村岡到氏は自著のタイトルを関連性、一貫性のある三題囃としているが、三つは決して等価同列ではない。眼目は「社会主義」であり、そのための「親鸞」であり「ウェーバー」である。
社会科学においても社会運動においてもこの「社会主義」なる名辞は、ことに日本ではここのところ聞こえてこなくなった。ソ連の崩壊、中国の変貌を鑑みれば当然であるかの如くであるが、その背景には「社会主義」とは「資本主義」に対置される概念であり、経済的には後者の「市場経済」に対する「計画経済」をもってその運営の基本となし、政治的には東西冷戦体制のなかで、いわゆる自由主義諸国に対立して共産主義を目指す過渡的形態の国家が備えるシステムである、という一般には理解しやすい、しかも、学界でもかなり流布された通念があったからであろう。著者がよく引用する『経済学辞典第二版』(一九七九年、岩波書店)を見てもこの含意が濃厚であった。マルクス、あるいはマルクス主義がこれを思想的、実践的に支えているという理解とともに。
しかし、マルクス以前にも「社会主義」は大いに唱えられ、さまざまな論争がなされていたし、非マルクス主義者も熱っぽくこれを論じていたことは社会思想史の教科書をななめ読みすればただちに分かる。日本では明治初期の社会運動家たちによって初めて世に知られ、使われ始めたときには必ずしも「資本主義」に対置されるものとしてではなく、まずは「個人主義」との関連において語られていた。
確かにある種の「社会主義」は消失した。しかし「現代社会」なり「社会常識」といった「社会」の名を負うものがあまたある以上、この概念は、存在はするもののいまだ定義されざるものである。これに再び息を吹き込むということは、著者が長期にわたって携わってきた革命運動・市民運動を持続させつつ、八〇年代以降に著述活動を重ねていくなかで、時代の状況を見つめ、あるべき社会の方向性と内容を示そうと試みている一貫した課題であり、実践運動の内側から絞り出されてきた痛切な反省に支えられている。だからあるいは手垢にまみれた「社会主義」とは別の語を用いてもいいのかもしれない。事実、「協議経済と生活カード制」、「則法革命」、「複合史観」、「連帯社会主義」といった独自の造語で、新たな社会の構想に向かう条件を著者はしばしば示してきた。しかし著者には「社会主義」にこだわる理由がある。
上のような関連から社会主義を定義しようとする際に、意識的に選びとられた、あるいはとられざるをえなかった方法態度は、著者によれば尾高朝雄が『実定法秩序論』の扉に記したフィヒテの──「誤った命題は、普通同じように誤った反対命題によって押しのけられる。のちになって始めて、人はその中間に存するところの真理を発見する。それが学問の運命である」──という言葉によって示されている。これはふたつの見解の折衷的なもの、足して二で割るといった中間的なものでは全くない。ひとつの事象に徹底的に身を捧げ尽し、その経験をくぐり抜けてこそ初めて感得される誤謬があり、それを解く鍵が、誤っていると思われた正反対のものに在ることを知る、そしてそこから何かが創造されるということである。だから「のちになって」わかるための時間と努力を要して発見=獲得される「真理」なのである(「真理」というとものものしいから「認識」と私はしたいが、これを弁証法と説く人もいるだろう)。
従って著者の道のりは、まずは運動の中で見えてくる誤謬や欠落していたもの、時代に合わないものが、運動を主導し、自らも依拠したマルクス、マルクス主義のなかに起因していなかったかを根底的に点検するということから始まる。すると前著(注1)における「生存権」、「(法の前での)平等」、「エコロジー」や本書の「心の在り方」、「(仏の前での)平等」(親鸞)、「愛」(フロム)、「官僚制」(ウェーバー)といったマルクス自体が見落としていたと思われるもの、あるいはマルクス主義陣営で、低く評価されていたり、否定されていたことがらが、反対命題として次々に析出されていく。「浅学菲才」をもじって「独学非才」といいつつ、古今東西の思想家や社会理論家が時代を越えて次々と利用されるのだが、ここで著者はマルクスをはじめとしてあらゆる論者に「ないものねだり」は決してしない。検討の対象の全体像でなく、そこから必要な観点を摂取し、違和感があればかれらがなぜそのような不当なあるいは不完全な認識に至ったのかという点まで降り立つ批判的検討のうえに自らの思考を重ねていく。個々のマルクスやウェーバーの研究者や社会運動家からは異論も反証・反論もありえようが、この「社会主義」の定義という目標を抜きにして議論するのは、ここではあまり意味がないと私は思う。
ただ、指摘しておきたいのは、著者が政治経済過程の中に「愛」や「宗教」的な要素を組み込もうとする問題意識と、それを生かそうとするときに横たわる困難さを、ウェーバーその人が強く意識していたことである。本書にかかわる点では「緊張関係」という視角をもってウェーバーが合理化過程と性愛、宗教的共同体形成と政治的権力とのせめぎあいなどの理解に正面から取り組んでいることは想起されてもよい。それは専門化されて生きる迫力を失った学問研究のあり方への批判にもなるだろう。
2 基礎視角としての「平等」の重み
さて、「社会主義」を再構築する過程で著者によって提起されるのが「清廉な官僚制」、「協議経済」等々であるから、これらは先ほどの意味での「中間的」な性格を負わされている。たとえば「計画経済」の非効率性を論難する「市場経済」に対して、その暴力性を克服しようとする「協議経済」といったものである。さらにここには一貫して流れる底流がある。それは経済システムとしての〈「賃労働─資本関係」の変革〉を必須の条件とする「平等な社会」という理念である。著者が「社会主義」にこだわる所以はここにある。
「社会主義は資本主義のように経済における競争がなく平等であるから働く意欲(カネを稼ぐという意味での)がなくなり、社会の発展がない。」といった俗論があるが、また、マルクス主義陣営のなかでも「革命的な」人格の同一性といった主張があるが、ここで構想される平等とは、およそそれらとは対極にあるものである。詳述は著者に譲るが、ここで提起されているのは、個々人の多様性を不可欠の前提としたうえでの、また、法によって根拠づけられた、宗教にも通底する平等であり、その核心には、個人にふりかかる様々な危機がもたらす不幸を避ける万人共通の人権が、異質なものを意識的、あるいは無意識的に繋ぎとめるべき「生存権」として据えられている。したがって問題は経済システムを含みつつこれを超えていく。「賃労働-資本関係(注2)」は生産関係における実質的な不平等に基づき、直接には経済的格差を拡大再生産し、さらには地球環境の破壊といったそれぞれの社会を超えたうえでの人類的不幸にも繋がっていく。その結果、社会の成員の一部かあるいは大多数かに不幸をもたらさざるをえない。この意味で、他者に不幸をもたらす「自由」に先がけてこの平等は優先され、社会変革の道標とからねばならない。というのが本書の基礎視角である。
万人に「死」が等しく与えられているのと同じ意味で、生まれてきた以上、できるかぎり不幸を取り除いて「生きるに値する生」を全うする権利(著者によれば生存権)が平等の根拠である、と私も考える。この基礎視角には深く同意できる。問題はこれを核としていかに社会を形成するか、である
その際には、個人を離れて制度としてある政治経済が非常に大きな役割を果たすものの、個人の持つ様々な多様性(それは状況に規定されてもいる)をどう確保するのか、という複雑で総合的な課題が横たわる。一時的か永続的かはおくとしても、自己の不幸を取り除くことが他者の不幸を招くこともある。不幸への感受性も置かれた環境や立場、価値観により個々人の主観的な偏差があり、それをどう調整し、合意を形成するかという課題である。それには社会学的な「組織」や「集団」、さらには宗教といった領域にも目配りを広げ、その知見を目的に向かって生かしていくという方法が要請される。政治経済を含む「個人と社会」という問題設定が底流になければならないのである。その試みが著者にとっては「親鸞」であり「ウェーバー」なのである。
3 ウェーバーの官僚制に関して
官僚制問題の「中間の真理」についての著者の構図はこうである。初期マルクス(ヘーゲル国法論批判)には官僚制に対する批判の萌芽はあったが、マルクスもマルクス主義者もこの深刻性を見落としていった。それはスターリニズムやソ連・東欧社会主義、あるいは日本の左翼運動に貫通し、その崩壊の原因となり、その過程で多くの人々の不幸を招いていった。この痛みは運動をくぐりぬけた者のリアリティにおいて語られている。
しかるに、誤れる反対命題としてのウェーバーは、資本主義国家と近代官僚制の内的関連性を提示するだけでなく、社会主義においても官僚制が必然的に随伴することを見抜いていた。著者によればこれに徹底的に学ぶ(摂取する)必要があるが、ウェーバーは「鉄の檻」としての近代官僚制の運命的な支配力を重く告知しつつ「いかにして自由を確保」するかという問題設定をするだけで、ペシミズムに陥っている(注3)。著者によれば「平等」への顧慮に欠ける、ということになる。
経済システムとしての「賃労働─資本関係」とは異なり、「官僚制」は非歴史的存在(人間二人が集まれば官僚制が生ずる)であって(注4)、この支配から人類は逃れることはできないことを学ぶべきだ、官僚制の弊害を極小にすること、そのためには「平等志向」を理念として官僚制の是正を行うしかない、というのが著者のロジックである。そのうえで情報公開、オンブズマン、官僚の特権の廃止、輪番制、多党制といった制度的な提案がいくつか示されている。
ウェーバーの仕事を見渡したうえで、かれの近代官僚制論が「鉄の檻」とのみ認識され、平等を欠いた「自由の確保」という点だけで語られているのか、かれの社会主義批判は著者が指摘するように「実物経済の非合理性」、「レーテ革命の誤謬」、「不可避に随伴する官僚制」ではあるが、ウェーバーなりのポジティブな「社会主義」の可能性についての見解はないのか、といった点は既に指摘したように本書の論脈に即した議論ではないので控えたいが、「近代官僚制と平等」あるいは「近代官僚制と民主制」という点に限ってここで記しておきたい。ウェーバーの学ぶべきところだけを摂取して、結論的には乗り越えるべき「ペシミスト」と位置づけて終わっていいのか、むしろ著者の主張に沿うかたちでさらに学び、利用できるところがあるのではないか、というのが以下の私のコメントの趣旨である。
『経済と社会』でウェーバーは近代官僚制の前提・随伴現象として貨幣経済(とりわけ租税制度)の発展、質量ともに増大する行政事務の発展、行政手段の中央集中とともに近代官僚制が「技術的優秀性」を持っていることを、評価を抑えて列挙している。だから何のための「技術的優秀性」かは気になるところだが、ここで正確性・迅速性・明確性・費用の節約とともに、法や規則によって定められた服従関係の確実さが確保されることが指摘されている。もちろんこの記述は、人格とは対極にある物象が社会関係を「支配」するというかれの全業績を貫く批判的な基礎認識に裏付けられているが、ここでは「支配=服従」の実態を正確に見定めるよすがが示されているとはいえないだろうか。確かに官僚制は無批判に既成の法や秩序を受け入れて、思考停止のまま事務的に事象を処理し、結果として「迎合主義」に陥る危険性を多大に有しているが、「個人と社会」の関係の確かな認識をもたらし、批判的に事態を捉え返す足場になりうるのではないか。あくまでも出発点としてであるが。
同じ趣旨でもう一点あげるならば、同じ個所でウェーバーは「社会的・経済的差異の撤廃と水準化」を指摘している。「水準化」とは著者のいう「平等」に重なるものと私は考える。もちろん「被支配者の権利の平等=みかけ、すなわち形式的には平等という形をとった合法的支配」に頽落する可能性をつねに含んではいるものの、官僚制が不可避な現代社会において「平等」に関わるべきものとしたならば、この条件をくぐりぬけるしかない、と考えられる。近代官僚制は不幸をもたらす不平等な支配を構造化する装置であると同時に、それを認識し、そして掘り崩していく武器として存在させなければならない。そのためにはシステムとしての近代官僚制とその外の多様な実質的なものとを呼応、連携させていくことが肝要だと思う。たとえば著者のいう「協議経済」にしても、このような視角からの検討が寄与するのではないか。
4 合意形成に向かって
しかし近代官僚制のこの二面性を制御し、社会運動を通して不平等に基づく個人と社会における不幸を除去していくのは容易なことではない。ウェーバーにも「神々の闘争」という認識があるように、個々人の多様性、生きるに値する生のありかたの違いを確保しながら「社会主義」を構築するには、価値観、感覚、経済的利害関係、政治的支配関係等々におけるそれぞれの差異や不平等を確認したうえで、社会的合意を形成していかなければならない。その実践的課題の困難さが前著でも指摘されていた。
難しいことだが、著者に触発されて考えるには、どんな「不幸」でも見逃さないという感受性の共有が鍵になるのではないか。それは不幸を負っている者、弱きものが連帯し、そうでない者がこれに同情するといったことでは十分ではない。他者の不幸を前にして、自らも同様な状態に陥りはしないか、陥ったら何をどう感じるのかという共感を生むリアルな想像力、そしてあるいはその不幸は自らが作り出した社会の構造が強いるものではないか、であればその是正が優先されねばならない、という分析力を引き起こす感受性であ。結集の範囲を狭める「受苦者の連帯」ではなく、それを開かれたものとする「受苦者への連帯」である。
ましてや「リスク社会」(ベック)ということが取り沙汰されるほど、現代社会においては、たとえば放射能汚染や地球温暖化のように、一部の人間でなく社会に生きる人間すべてが共有しなければならない人類的な不幸も忍び寄ってきている。不幸を直視するのは決して愉快なことではないし、生きるに値する喜びに向かっての足かせという意識を多くの人びと、とりわけ社会運動には無縁だと思う人びとに生じさせがちである。
しかし、この感受性が平等の根拠であるという意識のもとに社会的合意を形成していくことは、たとえ個人の自由に制限を加えるものであっても、その意義を相互に承認しあい、強制力を伴う権力の介在を排除した自制であればこそ、得るものは大きいはずである。社会運動が欠落させてきたものはこれである、という思いを著者とともに持てたらと思う。
〈注〉
(1) 村岡到『生存権・平等・エコロジー』二〇〇三年、白順社
(2) これを「自由な労働の合理的組織」とウェーバーは表現している。
(3) この理解は昨今のウェーバー=ニヒリズム論にもつながっている。
(4) もちろんビスマルクによるプロイセンの官僚制や、エジプト、中国などの家産官僚制といった歴史的な存在もウェーバーは扱うが。
(5) かつてアダム・スミスがSelf-interestとセットにしてSympathyを語っていたことがここに関連してくる。
堀田 泉 近畿大学教授
『近畿大学総合社会学部紀要』第三巻二号=二〇一四年七月、から承諾を得て『探理夢到』第7号に転載しました。
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