序 茨城県における朝鮮人強制連行より
はじめに
敗戦前の大日本帝国政府が行った朝鮮人の強制連行は、記憶され続けなければならない。人道に反する国家の犯罪として記憶することは、二度と国家なるものが同じ轍に入り込むことがないようにするために、不可欠のことがらである。そして、今日の日本政府は、過去の日本国家が犯した罪を国家として謝罪し、被害を受けた朝鮮人民衆にたいして相当の償いを誠実に履行すべきである。そうした行為の上に立ってこそ、平和で友好的な善隣関係が築かれるはずだと考える。
したがって強制連行の記録運動は、憎しみの再生産のためではなく、国家犯罪の再生産を防止し、近未来の善隣関係──国家どうしとしても、国民どうしとしても──招来のためにこそ、必要とされる営為なのである。そのような考え方にたって、以下に、茨城県における朝鮮人強制連行を概説したい。なお、この論稿が、これまでの調査による限られた史料によるものとならざるを得ないことをお断りしておきたい。
一 強制連行前の県内の朝鮮人
県内在留ことはじめ
内務省警保局の統計に、朝鮮人の茨城県内在留人数が始めて記録されるのは、一九一三年(大正二)のことである。そこには一一人という員数が掲載されている。もとより、この員数が現実を正確に表しているとはいえない。内務省の把握から洩れている多数の朝鮮人の存在が予想されるからである。
そのことは例えば、それ以前に県内在留の朝鮮人の存在を伝える新聞記事などが散見されることによっても裏付けられる。たとえば、一九〇九年(明治四二)の新聞「いはらき」には、北海道の炭礦から逃亡して、県内の土浦署に保護を求めた記事がみられる。
また、県内の労働現場に在留朝鮮人の存在が確認されるもっとも古い例は、一九一二年(明治四五)の同紙の記事にある。「日本と朝鮮の?合」と題されたこの記事は、生活習慣の違いに発した(と思われる)朝鮮人坑夫と日本人坑夫との、刃傷沙汰を報じたものであるが、その労働現場は日立鉱山であった。
これらのことから、茨城県においては少数ではあれ公式記録に載るほどに朝鮮人が在留し始めるのは、一九一〇年(明治四三)の日韓併合以後のことであり、日立鉱山のような坑内労働の現場で就労していたとみられる。日立鉱山について言えば、この時期、後発の銅山会社として躍進を始める時期に相当し、労働者需要を拡大していたのである。
日本の植民地政策
日本国家の機関である朝鮮総督府は、日韓併合以降の数年間、土地調査事業を強引に押し進め、所有の申告のない土地や所有の根拠を明白に示し得ない土地を暴力的に収奪していった。一九一八年(大正七)に完了したこの事業によって、朝鮮の農村には農地を失い、農業経営から切り離された農民が多数輩出した。続いて実施された産米増殖計画も多数の農民を農村から切り離した。
朝鮮の都市部ではそれらの農民を吸収できる労働市場の形成は十分には発展していなかったから、失業者・半失業者は膨大な量となって社会に滞留した。それらの失業者・半失業者が朝鮮半島から海外に流出していった。日本に渡航してくる朝鮮人の多くがこうした失業者・半失業者であり、職を求めてやむをえず異郷の地にやってきたのである。それは疑いもなく、日本が朝鮮に対してとった植民地政策の結果であった。
こうした歴史的事情のもとに、茨城県域にも朝鮮人が在留するようになり、その人数も少しずつ増えていった。先の公式記録によっても一九一八年には七三人、関東大震災の一九二三年には二一八人となる。この頃には県北の炭礦会社に就労する朝鮮人の存在も記録されている。
昭和にはいると増加のテンポは早くなった。一九二七年(昭和二)の人数は三六八人である(『茨城県統計書』によると、三五八人で、以下若干の数値の違いがある)が、三二年には七九五人で二倍以上に増え、さらに三五年には一一〇〇人を超えた。金融恐慌・世界恐慌に始まる経済不況の時代にも、在留朝鮮人は増加していったのである。日中戦争開始後の一九三八年(昭和一三)には二〇〇〇人を突破した。そして、強制連行のはじまる三九年以降の戦時体制期に飛躍的な増加をみるのである。
在留朝鮮人の集住地域・職業
さて、茨城県内に在留した朝鮮人は当初は、坑内労働者として鉱山や炭礦の所在地帯に、あるいは大規模な土木工事、たとえば水力発電所の建設や鉄道の敷設などが行われていた地域に、散在して居住していたが、次第に都市的業態の街に集住するようになった。
とくに第一次大戦後の慢性不況期や続く昭和恐慌期には、鉱工業からしめだされた彼らはいっそう、都市部への集住を強めた。警察署管内でいえば、水戸や土浦などに県内の朝鮮人の多くが住むようになった。これについで多いのは江戸崎、龍ケ崎、湊、取手、下館などの管内である。
強制連行前の県内在住朝鮮人が、どのような職業にたずさわっていたかということでは、男子でもっとも多いのは古物商であり、ついで土工夫、雇い人である。女子では接客業、古物商、雇い人の割合が高い。いずれも都市雑業的な職業とみられるが、それは朝鮮人が都市的業態の街に集住するようになったという事実に見合っているといえよう。
戦時体制期になると、常磐南部炭田と日立鉱山を擁する多賀郡下への集住が飛躍的に高まる。これはこの時期に行われた朝鮮人の強制連行が、炭礦・鉱山部門にもっとも集中した結果である。 |