ロゴスの本

名著復刻 尾高朝雄『自由論』

自由と平等を原理的に探究した名著
フッサールの現象学、J.S.ミルの『自由論』を継承・深化。
世界平和創造のために国際法と国連の歴史的意義を強調。
ソ連「共産主義」への厳しい批判とフェビアン社会主義への期待。
『社会主義はなぜ大切か』の著者 村岡到が解説。

尾高朝雄『自由論』復刻版 ロゴス

2006年10月1日刊行
A5判 254頁 3000円+税
ISBN978-4-88023-601-2 C0036

尾高朝雄『自由論』復刻版 目 次

はしがき 
第一章 意志の自由 
   一 自由と必然
   二 初発原因としての自由意志
   三 精神と物質
   四 道徳の要請としての自由
   五 人格の形成
第二章 世界を作りつつある存在
   六 人間と世界
   七 世界の意味構造
   八 意味付与と意味創造
   九 財貨の生産とその配分
  一〇 規範意味の世界
第三章 政治の自由 
  一一 政治社会の構造 
  一二 国家からの自由
  一三 普遍意志の自由
  一四 自己疎外からの解放
  一五 国家への自由
第四章 経済の自由
  一六 自由企業と利潤分配
  一七 植民地の獲得
  一八 広域秩序建設の野望
  一九 公共社会主義財産の神聖不可侵
  二〇 二つの広域経済圏の対立
第五章 文化の自由
  二一 文化の創造
  二二 思想の自由
  二三 学問の自由
  二四 自然の征服
  二五 人間の改造
第六章 平和世界の建設
  二六 戦争の防止
  二七 目的因としての「世界人権宣言」
  二八 平和の長期建設
文献表   
解 説   村岡 到

 はしがき

 一九二九年(昭和四年)の初秋、その年の春に始めてヨーロッパの地をふんだ私は、しばらくベルリンでドイツの生活に親しんだ上で、かねて尊敬していた〔ハンス・〕ケルゼン先生の下で国家学の研究に着手するために、プラハを経てウィーンにむかった。
 プラハでは、ホテル・ウィルソンという宿に泊まった。この都会の中央停車場にも、ウィルソンの名が冠せられていた。ウィルソン大統領の民族自決主義を指導理念として成立したヴェルサイユ条約によって、ドイツ民族への隷属から解放されたチェコスロヴァキア国民にとっては、ウィルソンの名は、自由のシンボルのようにひびいたのであろう。つづいて、ウィーンでは、下宿を探すまでの間、都心に近いホテルで数日すごした。そのホテルの面している広場は、第一次世界大戦の終了以来、フライハイト・プラッツ、すなわち「自由の広場」と呼ばれていた。ドイツと敗戦の運命をともにしたオーストリアは、みじめな小国になり下がったけれども、帝政時代の国家権力の圧迫から解き放たれた喜びは、それにもかかわらず大きいというのが、当時のウィーン人の気持ちだったのだろう。
 しかし、それは、ほんの束の間の喜びにすぎなかった。私のいたころ、すでにオーストリアでは、地方を地盤とする右翼運動が強力になって来て、首都ウィーンを根城とする左翼政治勢力との抗争が激化しはじめた。ウィーン大学においては、シュパンの全体主義理論がいきおいを得て、その攻撃は、まず著名なマルクス主義者たるマックス・アドラーにむけられ、つづいて、法学の政治的中立性を強調するケルゼン先生をも指向しはじめた。先生は、ついにウィーンを去って、ケルン大学に転任された。そのころのドイツは、オーストリアにくらべれば、それでもまだはるかに自由の重んじられる国だったのである。
 ところが、私が三年間の在外研究を終って、帰国の挨拶をするためにケルゼン先生を訪れた一九三二年(昭和七年)の春には、もうナチス政治勢力の奔流がドイツ全土に浸透しつつあった。先生の地位は、ふたたび危うくなって来た。翌三三年の一月三十日には、ヒトラー内閣ができ、ナチス独裁政権による自由の焚殺事業が開始された。先生は、難をジュネーヴに避け、さらに一九三九年には、リスボンから飛行機でアメリカ合衆国に退避せられた。現代の生んだ典型的な自由主義法学者たるケルゼン教授が辿った運命は、二〇世紀における自由受難史の一断面であるということができる。私は、それを回想すると同時に、先生に別れを告げてイギリスに渡り、さらに大西洋を横断した私の乗船が、ボストンに着いたとき、そこではじめて「ニューヨーク・タイムス」で、祖国日本に起こった〔一九三二年の〕五・一五事件を知ったときのことを、思い出さずにはいられない。
 それでは、停車場やホテルまでウィルソンの名をつけ、アメリカ合衆国からもたらされた自由の贈物に感謝していたチェコスロヴァキアは、それからどうなったか。ミュンヘン会談に際してイギリスの取った宥和政策は、ヒトラーをしてやすやすとズデーテン地方の奪取に成功を収めしめた。つづいて、ポーランド回廊地帯の問題は、ついに第二次世界大戦の発火点となり、ナチス独裁主義は、チェコもふくめて、ひろくヨーロッパ大陸に君臨するにいたった。その後、戦局の推移とともに、チェコは、ファシズムの政治から「解放」されたけれども、今度は、改めてソ連衛星国の一つに編入されてしまった今日のチェコ国民に、はたしていかなる「自由」があるであろうか。今日のプラハ人は、いやプラハの共産主義者たちは、かってウィルソンの名に自由のシンボルを求めたメンタリティを、「狂気の沙汰」と感じているかも知れない。しかし、そのかわりにかれらが実施しつつある「プロレタリアートの独裁」は、そもそも真の自由への道であり得たであろうか。
 現代人は深く自由に憧れているだけに、そうして自由という言葉が不思議な魅力、いや、魔力をもつだけに、人びとは、まだまだ自由のあるところに、自由はないと見かぎりをつけたり、自由という言葉だけあって、現実には自由のないところに、現実の自由があると信じこんだりしがちである。それだけに、いやしくも自由の問題について小論をものし、それを発表するほどの者は、大きな責任を感ぜざるを得ない。
 折しも──私がこの小著の原稿をほぼ完了し、印刷所へまわす準備にとりかかった二月二十日に──いわゆる「東大事件」が起り、学問の自由および大学の自治の問題が世の大きな関心の的となるにいたった。私自身も、事件の渦中にあって、自由の問題についてさまざまの具体的な角度から検討を加える機会を得た。その生々しい体験のさ中に、わずかの余暇を利用しつつ原稿を曲がりなりにも仕上げて、勁草書房に手交したが、再読、三読した結果として、全体の論旨はこれでよいという信念を新たにしたので、ここにこの書を世に送ることとする。自由のあり方について思い悩む読者諸賢の御参考ともなるところがあれば、さいわいである。ただ、そのような事情の下に、予定の期限までの完成をいそいだので、仕上げに粗雑な点があるであろうことをおそれている。

  一九五二年三月二十一日   著者