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近代日本の分岐点 日露戦争から満州事変前夜まで  深津真澄
第30回 石橋湛山賞受賞

近代へと歩み出した日本には 侵略と戦争への道のほかに進路はなかったのか
 小村寿太郎 加藤高明 原敬 石橋湛山 田中義一    歴史的愚行と時代を超えた洞察をえぐる

深津真澄著 近代日本の分岐点 日露戦争から満州事変前夜まで
2008年6月16日刊行
A5判 上製 238頁 定価 2600円+税
ISBN978-4-904350-06-5 C0021

近代日本の分岐点 日露戦争から満州事変前夜まで:目次
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プロローグ 大正時代をどうとらえるか
第1章 小村寿太郎とポーツマス条約
第2章 対華21カ条要求と加藤高明
第3章 原敬と国際協調路線の設定
第4章 石橋湛山と大日本主義の否定
第5章 田中義一と2つの干渉戦争
エピローグ 岐路の年・高宗物語
付録 石橋湛山「大日本主義の幻想」

著者紹介深津真澄(ふかつ・ますみ)
1938年東京生まれ。
61年東大法学部を卒業し朝日新聞社に入社。政治部員を経て『朝日ジャーナル』副編集長、論説委員。
95年に退社後はフリーライターとして、『週刊金曜日』『週刊20世紀』などに執筆。

各紙で書評、好評!

  大日本主義」の幻想は一掃されたか  深津真澄

 『近代日本の分岐点』の巻末には、付録として石橋湛山が大正10(1921)年に書いた『大日本主義の幻想』という論文を全文収録している。大日本主義とは、湛山の定義によると「即ち日本本土以外に、領土もしくは勢力範囲を拡張せんとする政策」である。人によっては、帝国主義日本は敗戦によってとっくに清算されたのに、というかもしれないが、私は形を変えた大日本主義の幻想が現代日本にまだ息づいていると思う。
 具体例を一つあげれば、自民党政権が片時も忘れない日米同盟絶対論である。米国の軍事力を頼りにしなければ、日本の安全は本当に保障されないのだろうか。湛山は80年あまり前に「日本の本土の如きは、只遣るというても誰も貰い手はないであろう」と喝破している。現代では国連をはじめ国際社会の理性的対応は十分期待できるのに、日米同盟がなくなったら大変だ、といった事大主義的議論がいつまでも罷り通っている。
 経済問題でも「大国意識」は抜きがたいものがある。中国やインドの経済発展がめざましく、アジアのリーダーとしての日本の地位が危ういという昨今の議論も、その根っこには「先進国日本を脅かすのか」という感情的な反発がありはしないか。かつてのような侵略的、破壊的意識はないとしても、時代環境の変化に応じて共存共栄をめざす謙虚さはまだ不十分ではないか。「大日本主義の幻想」をあえて再録した所以である。

  はじめに

 一九四五(昭和二〇)年の敗戦から六〇年余りの時が流れ、日本人の大多数はあの戦争の時代を知らない世代となった。戦中派はもちろん戦争末期にようやく物心がついた人たちのほとんども、社会の第一線から姿を消しつつある。筆者は日中戦争が長期化の様相を濃くしていた昭和一三年に生まれ、敗戦の年に小学校(当時は国民学校)に入学した戦中派と戦後派のはざまにいた一人である。戦争を知っているといっても、東京大空襲の夜辛うじて被災を免れ、父母の故郷である群馬県の山村に疎開した程度の戦争体験で済んだが、年齢を重ねるとともに、明治維新から敗戦に至る近代日本の波乱の歴史を自分なりにたどり直してみたいという思いが強くなった。なぜ、日本はあの無謀な戦争に突入してしまったのか、なぜ、多くの国民が「満蒙は日本の生命線」などという軍部や新聞の空虚な掛け声を疑おうとしなかったのか、自分自身で納得のいく説明を見いだしたかったからである。
 こうした思いは、敗戦の前後に飢えと貧乏に苛まれた記憶が消えず、高度成長以後は打って変わって自由で豊かな社会を経験した世代にはかなり共通したものである。たとえば昭和一六年生まれの立花隆氏は、大著『天皇と東大』(二〇〇五年)のはしがきで「敗戦後の時代、日本は一時ドン底まで落ち込んでから、また這い上がってくるという悪戦苦闘を続けなければならなかった。その間日本の生活水準は今の発展途上国の遅れた方の国のそれと同じような水準で、先進国の生活などというものは夢のまた夢だった。それが私たちの少年時代だった。そういう世代であったればこそ、私は子供のときから日本はどうしてこんな国になってしまったのか、なぜこんな大失敗をしてしまったのかを、最大の疑問として生きてきた」と執筆の動機を述べている。
 筆者も同じような疑問を抱えながら、日本近代史にかかわるさまざまな本を読み込んできた。勉強を始めてみて意外に感じたのは、満州事変以降の昭和史に関しては、さまざまな立場の人によるいろいろな戦史、体験記、歴史的事件の分析などたくさんの記述があって、汗牛充棟ただならぬものがあるのに、明治維新から大正までの歴史の流れを踏まえて近代日本の歩みを概観できるような本が少ないことである。とりわけ、一般市民向けの定評あるハンディな通史がなかなか見当たらないことに当惑させられた。学者が著した大部の著作や大出版社が何人もの研究者を集めて刊行したシリーズものならいろいろあるが、大学生の教科書ないし市民の教養書として気軽に推薦できるような本が見当たらないのである。
 これは、近代日本の歩み自体が山あり谷ありのうえ複雑多岐にわたる迷路をくぐり抜けているため、一人の著者がバランスよく叙述すること自体大事業になってしまうことと同時に、歴史研究の専門化、分化が進み過ぎて、通史の記述では業績を上げにくいという学界事情があるのだろう。そんな中で辛うじて見出したのは、中公新書に収められた猪木正道氏の『軍国日本の興亡』(一九九五年)である。日本近代の全体像をつかむのに随分お世話になったのだが、この本は六〇年代に猪木氏が京都大学で日本政治外交史を講義したときのノートをもとにした著作であり、その後の新しい研究成果が十分取り入れられているとはいえず、敗戦にいたる叙述の流れも広田内閣で終わってしまうため、しり切れとんぼの感は免れなかった。とはいえ、猪木氏の本で強く印象づけられたのは、「一九三一年の柳条湖事件にいたるまで、満蒙の独立運動は陸軍の公然・非公然の支援を得て、執拗に続けられた。満州事変は決して偶発事件ではなく日露戦争後の宿願成就だったのである」と強調されていたことである。
 多くの昭和史本は満州事変から説き起こすのが例である。日本の軍国主義化が始まったのは満州事変とすることに異論の余地はないが、関東軍が事変を引き起こすまでにはさまざまな前史があった。つまり、敗戦にいたる昭和前期の軍国主義の成長、拡大、暴走のプロセスを知るためには、日露戦争以後満州事変までの二五年間の歴史こそ見落としてはならない重要なポイントなのだ。作家の半藤一利氏は、戦争を知らない若い世代向けにまとめた『昭和史』(平凡社、二〇〇四年)の冒頭で「昭和史の諸条件は常に満州問題と絡んで起こります。そして大小の事件の積み重ねの果てに、国の運命を賭した太平洋戦争があったわけです。〔昭和史の〕根底に『赤い夕陽の満州』があったことは確かなのです」と述べている。「赤い夕陽の満州」に日本はどのようにしてかかわるようになったのか、その土地を支配するために明治、大正期にいかに無理な政策を積み重ねたのか、その過程を知ることこそ年来の疑問を解くかぎになると思う。
 この本の内容は以上のような問題意識をもって、日露戦争の前後から満州事変の予告編ともいうべき一九二八年の張作霖爆殺事件までの日本の政治、外交の流れを、そのときどきの政策動向のキーマンとなる人物の動きを通じて掘り下げたものである。年代的には明治末期から昭和初期にかかる二五年余りにわたり、国内的には大正デモクラシー期の政党政治が軌道にのる一方、国際関係は中国の辛亥革命(一九一一年=明治四四年)以後の同国内の混乱が長引き、また、第一次世界大戦の勃発と世界秩序の再建をめぐって情勢が錯綜をきわめた時代である。この時代の日本の国策にかかわった四人の政治家と一人のジャーナリストを選び、彼らが関係した歴史的事件とそれぞれの人となりを伝える評伝で各章を構成するようにした。
 取り上げた五人の筆頭は、日露戦争の外交面を取り仕切り満州の権益確保に執念を貫いた小村寿太郎である。彼は満州におけるロシアの権益を引き継ぎ遼東半島の租借権と南満州鉄道(のち満鉄)の経営権を獲得、さらに一九一〇年には韓国併合を主導した帝国主義外交の権化ともいえる人である。小村の満州権益にかけた執念こそ、昭和陸軍の暴走と惨憺たる敗戦の発端であった。続いて取り上げるのは、悪名高い「二一カ条の要求」を混迷する中国に突きつけた第二次大隈重信内閣の実力者で外相だった加藤高明である。彼は一九一四年に第一次世界大戦が勃発すると、国内の逡巡や英米の迷惑顔を押し切って参戦を主導するが、この機に乗じて期限切れが迫っていた満州権益の長期固定化を実現することが彼の狙いだった。しかし、強引な外交が祟って元老にきらわれ長く政権から遠ざけられるが、意外にも、彼は世界大戦後の内外の情勢変化に対応して成人男子普通選挙の実現や朝鮮自治論など柔軟な政治姿勢をとるようになり、大正一三年には第二次護憲運動の盛り上がりにより首相の座を射止め、大正デモクラシーの一方の旗頭となった。
 加藤より先に本格的政党政治を実現したのは政友会の実力者、原敬である。一九一八(大正七)年、米騒動が全国で荒れ狂ったあとをうけて政権を獲得、陸・海・外相をのぞく全閣僚を政友会員で占める本格的政党内閣を組織した。原はもともと外交官出身で国際的な視野と経済政策の重要性をよく知っていたが、日露戦争後の一九〇八年、半年間にわたる欧米旅行をして国際政治での米国の台頭を肌で知り、大戦後は中国をめぐって通商貿易競争が激化すると予測、日本経済の国際競争力強化が急務と考えるようになった。彼の政策の基本は外交政策の転換から連動して国内経済基盤の強化をめざすことにあり、外交政策の柱は軍閥割拠で統一に苦しむ中国への内政不干渉、列強諸国との軍縮推進にあった。日露戦争後の歴代内閣は、満州の権益をなし崩しに内蒙古に拡大し、中国本土にも影響力を強める軍部主導の「大陸政策」を続けていたが、原は経済重視の政策的発想から国際協調路線にかじを切り換えた。この路線は加藤高明の憲政会と民政党内閣にも引き継がれ、約一〇年の命脈を保った。
 次に取り上げるのは、大正デモクラシーの先頭に立ち、植民地権益の全面的放棄を唱えた石橋湛山である。彼は他の四人の政治家と異なり『東洋経済新報』という弱小経済誌に拠る一介のジャーナリストであり、日本の針路を直接左右する立場にはなかった。しかし、世界大戦による国際政治の潮流の変化と価値観の転換をはっきりと自覚し、帝国主義日本に代わる平和的発展の道を具体的に示した人である。とくに、一九二一年のワシントン会議に向けて書いた「大日本主義の幻想」という論文は、植民地の保有は民族自決の世界的潮流に逆らうもので経済的にも引き合わぬことを具体的に論証し、明治以来の帝国主義外交から平和経済外交への転換を訴えたもので、近代日本が分岐点にあることを明確に意識した記念碑的文章である。その発想は現代にも十分通用するものであり、巻末に付録として全文を収録した。
 一九二八(昭和三)年、政友会内閣を組織した田中義一も基本的には国際協調路線の枠内を進む方針だった。主要一五カ国が戦争放棄を宣言したパリ不戦条約に調印したことは、その表れである。だが二八年六月、一時は北京も支配した満州出身の軍閥、張作霖が関東軍の謀略により搭乗列車ごと爆殺されたことは、大正デモクラシーの下でひそかに進行していた軍部の不満と焦燥が爆発したものだった。事件の真相は「満州某重大事件」として一般には報道されなかったが、関東軍の謀略と知った田中首相は、昭和天皇に一度は「法に照らして厳然たる処分を行う」と上奏したものの、閣内や政友会内部からも処分反対の声が上がり孤立した。田中は天皇から厳しく叱責され、結局総辞職に追い込まれた。田中は首相失格と評されたが、時代はすでに個人の能力を超えて、破局へと向かう軍国主義の歯車が回転を始めていたのである。
 日露戦争以後二五年のこうした歴史の流れを振り返ると、二つの相異なる潮流がせめぎ合っていたことが分かる。一方では、大正デモクラシーと呼ばれる政党政治の本格化と都市民衆の増加に伴う社会状況の変化により、いったんは国際協調路線が選択され、日本は近代国家として正常な発展の道を歩み始めたように見えた。他方では、中国の長引く政情混乱につけ込んで、すきあらば満州の植民地権益を拡大、強化しようとする圧力が常に働いていた。第一次大戦後の国際的な民主化の潮流と被圧迫民族のナショナリズムの噴出は、前者の方向へ日本の変化を促すはずだったが、実際にはそうした状況が軍部の焦りと危機感を深刻化させ、実力によって植民地を確保する方向へ彼らを駆り立て、国家全体を破滅に導いたのだった。本書のタイトルを「近代日本の分岐点」としたのは、大正時代の日本には二つの道があり、結局は誤った選択に踏み込んでしまったという痛惜の念を込めたつもりである。

 近代日本の分岐点 日露戦争から満州事変前夜まで:目次
はじめに
プロローグ 大正時代をどうとらえるか

第一章 小村寿太郎とポーツマス条約
   小村寿太郎年譜
   1 日露開戦に積極的だった小村の強硬外交
   2 南満州鉄道日米共同経営案を葬った執念
   3 どん底の貧窮生活と孤独が養った度胸
   4 列強の中国分割と帝国主義外交への信念
   5 小村外交が体現した明治の国家意思

第二章 対華二一カ条要求と加藤高明
   加藤高明年譜
   1 世界大戦の勃発と日本の積極的参戦
   2 中国の主権を無視した二一カ条要求
      二一カ条要求の要約
   3 陸奥宗光に実力を見出され官界に
   4 運命の悪戯だった大隈内閣の登場  
   5 苦節十年の悲哀と政治家としての成熟

第三章 原敬と国際協調路線の設定
   原敬年譜
   1 二つの評価が交錯する現実派政治家
   2 外交政策で見せたリアリズム政治
   3 維新と戊辰戦争による屈折の深さ
   4 陸奥宗光に出逢い深い信頼関係に
   5 帝政ロシア崩壊で日本外交は孤立
   6 決定的な岐路で露呈した歴史的限界

第四章 石橋湛山と「大日本主義」の否定
   石橋湛山年譜
   1 ワシントン会議に向け植民地放棄を説く
   2 湛山の思想と筆を鍛えた第一次世界大戦
   3 日本の柱となり眼目たらんとの気概
   4 民衆を信頼し国民主権論を唱えた信念
   5 ワシントン体制の成立とその後の湛山

第五章 田中義一と二つの干渉戦争
   田中義一年譜
   1 満洲某重大事件の発生と波紋
   2 閣内からも陸軍からも孤立した首相
   3 日本の運命をも左右したロシア派遣
   4 軍国日本の有能なオルガナイザー
   5 三〇〇万円の持参金付きで政友会へ

エピローグ 岐路の年・高宗物語

付録 大日本主義の幻想           石橋湛山

岐路の二五年 略年表
あとがき