オーウェル『動物農場』の政治学 西川伸一
小さな特権がいつの間にか大きな権力に
権力の横暴への歯止めはどこにあるか
G・オーウェルの慧眼をテコに 政治のからくりを縦横に透視する
2010年8月4日刊行
四六判 238頁 定価 1800円+税
ISBN978-4-904350-16-4 C0030
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目次
プロローグ 逆ユートピア小説は警告する
第一章 豚のメージャー爺さんの大演説
第二章 動物革命の勝利
第三章 豚の特権階級化の芽生え
第四章 反革命を撃退する
第五章 ナポレオン独裁体制のはじまり
第六章 路線転換
第七章 反乱から大粛清へ
第八章 風車の完成、爆破、そして辛うじての戦勝
第九章 ボクサー葬送
第十章 裏切られた革命
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はじめにより
ジョージ・オーウェル(George Orwell : 1903ー1950)といえば、逆ユートピア小説『一九八四年』Nineteen Eighty-Fourの筆者として有名です。これは1949年に刊行されました。実はその5年前の1944年に、彼は『動物農場』 Animal Farm : A Fairy Story という傑作を完成させています(初版刊行は1945年)。これは、政治のエッセンスに満ちた抜群におもしろい小説です。ふとした偶然で、わたしは2008年の6月にこの『動物農場』を手に取りました。その行間には権力の生理に対する慧眼にあふれ、ちょっと興奮しながら頁を繰っていきました。
というのも、わたしは勤務先の大学で国家論という科目を担当しているのです。『動物農場』を読み進めていくうちに、「これこそ国家論だ、これを教材にした授業をしてみたい!」という思いが、わたしの中にふつふつとわき上がりました。今一度わたしの背中を強く押したのは、2008年12月に『動物農場』を映画化したアニメが日本で初公開されたことです。このアニメがイギリスで制作されたのは、1954年にさかのぼります。英米での一般公開は1955年でした。それから半世紀以上を経て、日本のスクリーンにようやくお目見えしたのです。
「こんな偶然があろうか。なにかしなければ」と霊感に打たれた気持ちになりました。こうして書き上げたのが本書です。いわばわたしの授業のサイドリーダーのつもりで書いてみました。気楽な気持ちでお読みいただければ幸いです。『動物農場』は角川文庫で簡単に手に入ります。ちょうど、本書執筆中に岩波文庫から新訳も出されましたので、あわせてどうぞ。
第十章 裏切られた革命より
『動物農場』は上からみれば権力者の本能を活写し、下からみれば「慣れていく怖さ」に警告を発しています。
「慣れていく怖さ」について卑近な例を挙げましょう。わたしが大学に入学したのは1980年です。入ったサークルの部室があった木造の学生会館の壁には、至る所にいわゆる過激派のおどろおどろしいポスターがべたべたと張られていました。右も左もわからない一年生だったわたしは、とんでもないところに来てしまったと、ぞっとしました。
しかし一カ月も経たないうちに、部室に通うわたしはそのようなポスターをみても、なにも感じなくなっていました。変わらない風景に、脳が反応しなくなっていたのです。
それと同様に、体制内に大きな問題があったとしても、やがて人びとは面倒だなと思いつつ、変わらない風景のようにそれに不感症になっていきます。多忙な日常生活の中、異議を唱えない言い訳はいくらでも思い付きます。「茶色」に「俺」が慣れていったように、スクィーラーの「雄弁」に「それもそうだ」と動物たちが納得してしまったように。
いうまでもなく、インターネットが発達し、だれでもが情報にアクセスでき、だれでもが情報発信できる時代にわたしたちは生きています。かつての社会主義国のように、情報統制とイデオロギーの徹底的な教化によって権力を維持することは、ほとんど不可能でしょう。もちろん、文字が読めない動物農場の動物たちのようには、わたしたちはやすやすとはだまされないはずです。
むしろ『動物農場』からこんにち読み取るべきなのは、「慣れていく怖さ」ではないでしょうか。
いかに美しい社会デザインを描いても、運営においてエントロピーの増大は避けられない。そこで権力維持のために用いられる様々なペテン、ことば巧みに笑顔で忍び寄ってくる緩慢な抑圧に、惑わされずに警戒を解かないこと。勇気を出して声を上げること。オーウェルが『動物農場』で示した政治の本質への洞察を、わたしはこのような教訓としてとらえ直したいと思います。 |