ベーシックインカム〈生存権所得〉で大転換 書評
『週刊東洋経済』10月23日号
ベーシックインカム論議が盛んである。面白いことに、新自由主義的論者の主張と、格差拡大を批判する福祉国家論的な主張と、対極的な賛成論が交錯している。著者は後者というよりも則法的に社会主義を目指す立場に立ち、憲法(特に25条「生存権、国の生存権保障義務」)を生かすという観点からの主張を発信し続けてきた。「ベーシックインカム」よりも主張性の明確な「生存権所得」は著者の造語であり、「強欲社会から連帯社会へ」がその一貫したメッセージである。
『生存権所得』(2009年刊)の続編である本書の特徴は、雇用税、労働評価制、地域通貨、国民背番号の導入など、生存権所得実現のため具体的提案をしている点にある。それらの妥当性や現実性に議論の余地は多々あるにしても、「憲法に立脚した」生存権を保障するための所得分配という問題提起は傾聴に値しよう。ほかに大原孫三郎や石橋湛山を積極的に評価した論文も収録されている。 (純) |
ベーシックインカム〈生存権所得〉で大転換 書評:西川伸一
「生存権所得」実現のための衝撃的な主張が次々と
電車の中で、私立中学の入試問題を紹介する「シカクいアタマをマルくする」と題した学習塾の広告をよく目にする。本書はさしずめ「左翼のシカクいアタマをマルくする」書と言えよう。「『階級闘争』の時代は終わった」「賃労働ー資本関係は存続しているが、『資本家階級』はいなくなった」などと衝撃的な主張が次々に出てくる。
本書の主題はいま注目されているベーシックインカムの実現可能性をめぐる具体的検討である。昨年末の『生存権所得』(社会評論社)の続巻ともいえる。筆者はすでに11年前に「生存権所得」と名付けて同様の構想を提起していた。筆者は「〈生存権所得〉を実現することは、「市場経済からの〈大転換〉に繋がる」という。もちろん、筆者は突然この「生存権所得」を発想したわけではない。次のような思索を重ねた末に到達したのである。
生産にばかり目を奪われていたマルクスは分配の独自の重要性を見落としていた。それが「労働に応じた分配」、さらには「働かざる者、食うべからず」の跋扈を許すことになった。ところがマルクスの同時代人であるアントン・メンガーは、生存権を社会主義の基本権の一つに位置付けていた。人間は生まれながらに、生得の権理として生きることができる、言い換えれば、労働と分配は切り離して考えられなければならない。戦前にこの著作を翻訳して日本に紹介したのが森戸辰男であり、敗戦後に彼も立ち上げにかかわった憲法研究会を通して、生存権は憲法二五条に掲げられるに至った。
こうして導き出された「生存権所得」を政策として実現するためには、一定額の所得を社会を構成する全員に例外なく付与しなければならない。その財源として筆者は「雇用税」を考案する。他人を賃金労働者として雇用する法人、国家、自治体がこれを納税する。納税額は「生存権所得」の金額に雇用者数を掛けた額とする。一方、雇用者の所得は国家から給付される「生存権所得」と勤務する企業からの給与の二本立てになる。非雇用者には「生存権所得」のみが給付される。
この回りくどいしくみの理由を筆者はこう述べる。「労働力の商品化」こそ資本制経済の根本原理である。それゆえ「権理として給付されることと、労働力商品の対価として支払われる場合とは決定的に異なる」。前者の「生存権所得」を資本制経済に埋め込む。この「大転換」は、筆者が社会主義の経済システムとして遠望する「協議経済」とその下で実施される「生活カード制」へと連なっていく。
筆者のすごいところは、専門外だからなどといって課題から逃げないことである。「生存権所得」の財源を示そうと、筆者はわが国の税制を一から勉強して、現行の税制度の組み替えまでにまで論を進める。まるで、ビーバーが川辺の木をかじり倒したり、枯れ枝を集めたりして、いつしか巨大なダムをつくってしまうかのように。あるジャーナリストが著者をビーバーにたとえたことを思い出す。
大資本家だった大原孫三郎と保守政治家で首相になった石橋湛山に対する積極的評価も、意外感を禁じ得ないだろう。著者は「資本家=敵、労働者=味方」は非現実的なとらえ方だと指摘する。それゆえ、変革主体は「労働者(階級)」ではなく、〈変革をめざすすべての市民〉」になる、と。
惰性的なレッテル思考を拒否するビーバー村岡のこの誠実な著作のおかげで、私のアタマもかじられけっこうマルくなった。
西川伸一(明治大学政治経済学部教授)
『週刊金曜日』2010年11月5日号 書評 |
ベーシックインカム〈生存権所得〉で大転換 書評: 千石好郎
「市場」から「生活カード制」への大転換は、可能か?
本書は、昨年刊行された著者の『生存権所得──憲法168条を活かす』(社会評論社、本紙本年3月20日号に西川伸一氏の書評を掲載)の姉妹編といえよう。
著者は、半世紀前に日本に登場した新左翼運動に加担して以来、独自の理論構築を模索して、多くの論客がマルクス主義の呪縛にとらわれたまま低迷を余儀なくされるなか、唯物史観に代えて「複合史観」を提唱した。一元的経済決定論を引きずる唯物史観に対して、「社会や歴史を<経済、政治、法(律)、文化>の各領域・レベルに応じて独自に認識すると同時に、それらを複合的に包括的に把握する必要がある」(村岡到『連帯社会主義への政治理論:マルクス主義を超えて』五月書房、2001:69頁)とする。著者は、ソ連崩壊を真剣に受け止め、「民主政」を基軸とし、「即法革命」による「平和革命」の立場にたどり着いた。評者は、その理論的営為を高く評価して、2004年に「村岡到社会変革論の到達点」を書き、「レーニン主義の泥沼から這い出してきた希有の人物の一人」と評した(拙著『マルクス主義の解縛』ロゴス、2009所収)。
本書での新たな展開は、どこにあるのであろうか? 評者の見るところ、1.近年、論議を呼ぶようになった「ベーシック・インカム論」を著者が1999年から提唱していた「生存権所得」論に結び付け、さらにはこれまた著者の究極の目的である「生活カード制」の実現への関連を見出そうとしている点、2.「生存権所得」の実現に懸念される財源問題にまで踏み込んだ点、3.従来の「階級闘争」論の硬直性を緩和させようと試みた点、4.闘争の軸足を、即法によって改革をするべく、民主政の前進を求め、その際に現実の日本の政治状況を「歪曲民主政」にしている「小選挙区制」の是正を提唱している点などに、新たな展開が見られると思われる。評者は、概ね著者の見解に賛同する。
だが、著者の主張ににわかに賛同できない箇所もある。第2部の第一章の表題は、「『階級闘争』の呪縛からの解放を──『資本家=敵』は誤り」となっている。大原孫三郎(大原社会問題研究所や大原美術館を設立した)や石橋湛山(アジア侵略に大わらわだった戦時中に「小日本主義」を主張した)を新たに取り上げ、かれらは敵ではないと主張する。要するに、マルクスの「階級闘争」論は、誤りであると批判する。ところが、他方では、次のように述べている。「マルクスが資本制経済の基軸として明確にした<賃労働─資本>関係、別言すれば<労働力の商品化>という核心については、依然として正しく必要な認識であり、今日でも継承しなくてはいけない」し、「この認識は、同時にこの関係を根本的に否定・変革する方向性(価値判断)をも孕んでいる」(106頁)と。
しかし、これは、矛盾ではないのか? 評者は、ここで忘れかけていたアルチュセール学説(「闘争が現象的に可視的であるか否かとは無関係に、資本と賃労働とは非対称的な関係にある」)を思い出した。論理一貫しているのは、アルチュセールである。
また、生存権所得を「生活カード制」にまで拡張・深化させようとするのは、「労働力商品化の止揚」という信念があるからであろう。しかしながら、評者は、これこそマルクス主義が、空想的社会主義である証拠であると考える。人類は、マルクス主義を盲信して、出来もしないことを無理やり実現しようとして、悲惨な経験をもたらした。ソ連の戦時共産主義やポル・ポトの貨幣経済の廃止など、貴重な歴史的経験から教訓をくみ取るべきだろう。
そこで、注目されるのは、「第4部 補論──書評」における「西川伸一著『オーウェル「動物農場」の政治学』──ユートピアの陥穽とその超克」で著者が、次のように述べていることである。「ユートピアの追求は落とし穴にはまりやすい危険性を伴っていることを深く理解し、強く警戒・自戒しなくてはならないが、それでもなお、左右の谷底に注意しながらユートピアを追求する細かい尾根を歩まなくてはいけない」。著者は、楽天家なのであろう。
最後に、評者は、著者の文章がますます軽妙洒脱になってきたことを痛感している。昔の社会主義者には、荒畑寒村など達意の物書きがいた。著者もその域に近づいているのかも知れない。著者は、「あとがき」には、自らの使命を「<左翼五〇年>の経験を城山(三郎)的世界と統合することが必要である。それが、私の世代的使命とも言える」(229頁)と明言している。この使命が十分に果たされることを願いたい。そしてまた、ただ単にベーシック・インカムに関心を抱く人びとだけでなく、新左翼経験者やより良い社会を望む人の多くが、本書を手にすることを望みたい。
千石好郎(松山大学名誉教授・社会学)
「図書新聞」2010年11月13日号
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ベーシックインカム〈生存権所得〉で大転換 書評:大石 定
「労働通信」2010年11月号 書評
社会保障制度の制度疲労が深刻な社会問題となるなかで、新たな社会保障や生存権保障のあり方として「ベーシックインカム」という考え方がここ数年注目をあびるようになっている。このようななかで、雑誌『プランB』編集長の村岡到氏の新著『ベーシックインカムで大転換』(以下、本書)が発刊された。
導入の際の財源を試算
「第一部 <生存権所得>の構想」では、ベーシックインカムの歴史的意義と現在の資本制経済で実施する場合の政策と予算措置に関する試算を提案している。
著者は、現在議論されているベーシックインカムとほぼ同じ意味の政策として、一九九九年に「生存権所得」という名称で問題提起していた。これは、ソ連崩壊後の新たな社会主義像を模索するなかで、社会主義のもとでの分配論として提起したものである。しかし、これは「資本制経済においても部分的には変形した形で実現可能」であると述べ、それは憲法二五条の生存権によって基礎づけられているとしている。そして、「初歩的な生存権所得」としては、「現在の税制を変えず実現可能」であるとして、現在の生活保護制度や民主党政権のもとで導入された「子ども手当」などで一部実現していると評価している。さらにつぎの段階として、税制の改革を前提とした生存権所得や、そのつぎの段階の「十全な生存権所得」などをあげている。
その具体的内容として、つぎのような提案を行っている。
第一は、「雇用税」を創設することである。その目的は、生存権所得の財源を確保することである。納税者は、他人を賃金労働者として雇用するものであり、国や地方自治体も含まれる。労働者は、雇用主からは従来の賃金から「生存権所得」を差しひいた分を雇用主から受け取る。
第二の提案は、「労働評価制度」の創設である。その目的は、一五歳から六〇歳までに獲得した評価点によって、五十歳後の生存権所得の受給ポイントの増減を算定することにある。そこでは、企業等での労働だけでなく、家事、育児、介護、社会活動(自治会活動、街の美化活動、都市農業への協力等)などにも評価点をつける。
これらの制度を前提に、一五歳~七四歳までの全国民に、収入にかかわりなく月額一〇万円の生存権所得を支給する。〇歳~一四歳については月額三万円、七五歳以上については七万円を支給する。また、生存権所得の導入とひきかえに、子ども手当や年金、農家の戸別補償などはなくなる。
著者は、こうした生存権所得の実現に必要な予算を一三二兆円と算出している。そして、その財源として、さきにあげた雇用税七五兆円のほか、無駄な国家支出の削減一〇兆円、年金のなどの社会保障費の縮減(生存権所得を支給するので不要)九兆六〇〇〇万円、子ども手当五兆円ノノノなどをあげて、その財源の確保は可能だとしている。
こうして実現する生存権所得の「社会的効果」としては、つぎの八点をあげている。
1生活苦の大幅な解消、2疾病や犯罪のかなりの程度の減少、3社会の安定の確保、4自由時間の拡大、芸術、介護などの充実、5「戸主」への隷属の打破、6少子化への歯止め、7「限界集落」など過疎の村の解消、8労働評価の公正さの熟成
「所得が保障されたら、人間は働かなくなるのではないかという問題」について著者は、キューバや旧ソ連の経験やシュンペーターの知見などを研究して、「誇りをめぐる競争=誇競」が労働や生産の動機になるのではないかと提起している。
「階級闘争ではなく対話」を提唱
第二部と第三部では、生存権所得の実現をめざして運動をすすめていく主体、なかでもかつてマルクスやレーニンなどの思想の洗礼を受けた左翼勢力のなかにある観念的な傾向を正そうというものである。
「第二部 階級闘争ではなく対話を」では、「左翼勢力はマルクスが主張した『資本家=敵』観念に囚われて『階級闘争』を強調してきたが、そこに錯誤があったとしている。また、大原美術館を創設した実業家大原孫三郎と『小日本主義』を貫いた石橋湛山の足跡をのべ、「《賃労働ー資本》関係を対話によって打破することが課題である」と述べている。
資本家=敵は誤りとする根拠として、著者は、資本家も労働者もその存在は均質ではないとしている。資本家のなかにも、あくなき利潤追求のために非道なリストラ「合理化」や首切り、労働者の権利の剥奪や地域の乱開発、投機的な取引であぶく銭を稼ぐものもいれば、社会的に意義のある仕事をしているものもいる。他方、労働者もすべてが清廉潔白ではなく、大企業の正社員労働者のなかには、派遣労働者など非正規雇用労働者を人も思わず、かれらの犠牲のうえに自己保身を図ろうとするものもいるとしている。
そして、「資本家=敵」論を否定することで、1変革の主体を労働者(階級)とするのではなく、《変革をめざすすべての市民》とすることで新たな可能性を開く、2資本家とも対話し、かれらの意識を変え協力を得る道筋を開く、3大原孫三郎のような事例を真正面からとりあげて大いに評価し、その生きかたに共感すること、4無前提に「労働者=味方」とする安易な思考に陥らずにすむことなどが可能になるとしている。
「第三部 民主政の前進を」では、生存権所得などの経済課題を実現する道は、階級闘争ではなく<市民自治>であるとして、そのためには小選挙区制を廃止して立候補権を確立することが重要であるとしている。
また市民自治との関連で、地方自治についても左翼勢力のなかでは軽視する傾向があったとして、「憲法は地方自治レベルでは中央政治のレベルよりも強力な民主主義(住民による参加・自治)を保障しており、かつ中央政府から独立して団体として自治権力を発揮することを期待している」という奥平康弘氏の説明を引用している。
第二部で述べた階級闘争否定論との関係でいえば、「資本家による支配は厳として存在するが、それは個々の企業の内側においてであり、資本家による社会の支配は存在しない」と強調している。著者は、「奴隷社会や封建社会では政治と経済が未分化で、社会は身分制的に分断され、『支配階級』が存在し、劣者は『階級支配』されていた」、しかし「資本制社会では、経済的次元ではなお分断され、賃労働者は資本家に個別の企業では支配されているが、政治の次元では『法の下の平等』の基軸原理のもとでまったく平等」になっているとし、これが歴史の大きな前進であるとしている。そして、「確とした政治的次元での平等原理をてこにして、経済的次元での分断・格差・不平等の打破が新たな課題になっている」と説いている。そして実践的には、この平等原理の障害となる小選挙区制を廃止し、平等な<立候補権>の確立をめざすべきだと主張している。
意義のある問題提起
本書では、さまざまに議論されているベーシックインカムについて、もしこれを導入するためには、どういう政策・制度と財政措置が必要で、それはどういう効果があるのか(費用対効果)についてシミュレーションをおこなったことに大きな意義があるといえる。かりに政権がこの構想を実行しようとしたとしても、予想もしなかったような事態やさまざまな抵抗にあうだろう。まずは数字を含めてたたき台を作らなければ具体的な議論はできないので、その意味で、本書の提案は意義がある。
第二部、第三部の運動論については賛否両論があると思うが、硬直した思考を打ち破る意味では興味深い問題提起である。だが、本書で述べているように階級闘争を全面的に否定するという議論が正しいかどうかは、まだ議論を要すると思う。
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