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友愛社会をめざす──〈活憲左派〉の展望  書評:深津真澄

人間への愛情と信頼を原動力に社会主義五〇年──巷間の思想家村岡到氏の歩みと主張

 「思想家」なんてレッテルを貼ると、普通は、アカデミズムの殿堂の奥深く思索をこらす老人か、部厚い書物を背に神秘的な灯火ゆらめくデスクの前の紳士をイメージするだろう。だが、三十年余りのつきあいからみると、村岡氏の真価は、いかなるアカデミズムにも関係なく、独立独歩の思索を続け、市民のデモの先頭に立ち、集会の司会を務め、雑誌の編集に打ち込みながら、たくさんの著作を送り出してきた「市井の思想家、街の哲学者」と言いたくなる。同氏の新著『友愛社会をめざす〈活憲左派〉の展望』の内容は、そんな村岡氏の歩みと主張をまとめた一冊である。
 この本は二部の構成になっている。「序章 〈活憲左派〉の出発」に続いて、第一部は「左翼の通説を突破する」との副題をつけた「創語録」である。三十五年間に及ぶ執筆活動の中で、左翼運動に対する批判や違和感を表現する必要からひねり出した二十六の新語、造語を並べた語録だ。
 たとえば「愛郷心」と「愛国心」の違い。著者によると、左翼の考え方の基礎には『共産党宣言』に書かれた「労働者は祖国をもたない」というマルクス主義の不動の「真理」があり、愛国心など問題になるわけがない。しかし、彼はマルクスのご託宣に疑問をもつ。人間が家族や隣人、郷土に親近感や愛情を抱くのはごく自然な情動であり、これは「愛郷心」と呼ぶべきで、愛郷心こそ人間の社会を形成する土台だと評価するのである。タイトルの「友愛」にも繋がる。
 「愛国心と聞くとナンセンス!反対!と条件反射的に叫ぶことは誤りだった」と反省する著者は、排外主義やナショナリズムに利用されがちな「愛国心」の代わりに、国家に吸収されない<愛郷心>を育てなくてはならないと主張する。かつてのソ連も第二次大戦では「大祖国戦争」と愛国心を煽ってきたし、尖閣諸島をめぐる中国の反日デモでは、憎しみに顔を引きつらせた民衆が「愛国無罪」を合言葉に、乱暴狼藉を働いたことは記憶に新しい。
 愛国心を愛郷心に言い換えるだけで、ナショナリズムの病弊が治まるとは思えないが、愛郷心こそ社会の土台だと心にとめることは、感情に流されず、平和を確保する一歩だ。  
 従来の社会主義理論に対して、著者が申し立てるもっとも基本的な異論は「則法革命」という概念の提出だ。社会主義の実現をめざすには革命のプロセスが必要とされてきたが、村岡氏は「社会主義をめざす革命とは経済の次元では<生産手段の社会化>(あるいは社会的所有への転換」)として明確にされ、政治の次元では<政治権力を獲得する>と考えられてきたものの、政治権力の内実がどのように変化するのか示されていないことが大きな問題」と考える。
 端的にいえば「暴力革命か平和革命か」という古典的争点につながる疑問だが、「敵の出方による」(日本共産党)という主張もある。これらの見解に対して、村岡氏は「いずれも資本制社会の政治システムは<ブルジョワジー独裁>だ、とする前提に立っているが、この前提こそ見直さなければならない」と主張する。
 法の前で平等な権理(権利と表記しないのも独自の主張)をもつ市民による政治体制を創り出した近代では、「社会主義革命を実現するといっても、政治の領域では原理の上で根本的に変革されねばならない内実はない」と言い切るあたりは、「レーニン主義の泥沼から這い出してきた稀有の人物の一人」(社会学の千石好郎氏)と評される所以だろう。
 語録はいずれも、在来の社会主義理論の枠を越えた独自の用語を説明したものだ。著者は現在の日本の経済システムを「資本制経済」と認め、資本家と労働者の対立が厳存することを認識して社会主義を志向する左派の立場を堅持するものの、社会主義を望まない人を間違いとか敵視するのは誤りという。そして現代の左翼に必要なのは、自由、平等と並ぶフランス革命のスローガンだった「友愛」をもっと重視すべきだと提言する。
 資本制経済にとって友愛は必ずしも好ましい価値観ではない。自由や平等は利潤追求と矛盾しないが、友愛とは時には衝突しかねない。だから友愛はうとまれ、忌避されてきたが、逆にいえば「そこには資本制経済の欠陥を超える契機が内在している」として、現行憲法を活用して友愛社会日本をめざす展望を示すのだ。 
 後半は、五〇年にわたる活動を続けてきた半生を振り返っての「回想」である。新潟県長岡市の高校を卒業して上京、東京大学の職員となり、中核派に加わり、安田講堂の占拠に加担したり、国際反戦デーで逮捕・勾留されたりしたあと、内ゲバの横行に直面して第四インターに移り、さらに個人的な政治グループをつくり、社会主義理論の点検、刷新を志した。
 半生の記から汲みとれるのは、ドグマ化した理論に溺れず、組織の圧力に流されない独特の「しなやかさ」だと思う。それを生み出しているのは、先人の業績や未知の事物に対して、素直に心を開いて受け入れるおおらかさを忘れないことだ。それがどこから出てくるかというと、映画や小説に感動した場合、作者や主演俳優に率直な賛辞を書いて送るという「人なつっこさ」に由来する。
 映画『幸せの黄色いハンカチ』に感激すると、山田洋次監督と同席した機会に「寅さん」の原型キャラクターを教えてもらう。高倉健が日中合作の『単騎、千里を走る』に出演すると、「生き抜いていくことはもがくことだと感じています」と綴った返信をもらって喜んでいる。こうした人間への愛情と信頼こそ、友愛社会をめざす原動力なのだ。
深津真澄(ジャーナリスト、朝日新聞元論説副主幹)本書、140 144 169 197頁で触れている。
「図書新聞」二〇一三年一〇月五日号。

友愛社会をめざす──〈活憲左派〉の展望  書評:佐藤和之

 村岡到氏が著した本は数多いが、本書は「〈活憲左派〉としてもうひと踏ん張りするために、これまでの経験と理論を整理したほうがよい」(11頁)という問題意識で書いたという。そこで本書は2部構成になっており、まず第1部「創語録──左翼の通説を突破する」では、「立候補権」や「生存権所得」など、著者が過去三五年間に創語した言葉が整理される。そして第2部「回想──社会主義五〇年の古希」では、著者が上京してから約半世紀間における、二つの新左翼党派時代を含む、活動歴と思想形成過程がまとめられている。
 このような構成であるから、読み手に左翼的な知的好奇心と戦後日本の社会運動に関心さえあれば、本書はとにかく「面白い」に違いない。「創語録」には二六語あり、その対象領域は多岐にわたる。「回想」は巻末の人名索引でも分かるように、著者の幅広い交友関係が綴られている。それゆえ読み手にとっては、多かれ少なかれ、共鳴する部分はあるだろう。だが忘れてならないのは、本書は全体として、著者の実践的・理論的な中間総括になっている点だ。
 すなわち、「友愛社会をめざす〈活憲左派〉の展望」という、著者の到達点かつ今後の方針提起を基礎づけるために、本書は執筆されている。したがって、読み手がこの点に踏まえて主体的に読めば、「創語録」は著者との理論的対決にならざるを得ないし、「回想」は著者の活動歴を鏡として、自己の生き方まで問われることになろう。そして、「友愛社会をめざす〈活憲左派〉の展望」という言葉に集約される著者の問題提起を、読み手一人一人が如何に評価するかが重要だ。
 「活憲」と「友愛」について、簡単にコメントしてみたい。「活憲」は特に、序章や「創語録」の「憲法一六八条」で論じられている。すなわち、「資本家階級は彼らが対抗した旧支配階級を倒して、自らが支配的な位置に上りつめるさい……自らの階級的立場と利害をその名によって主張するのではなく、労働者階級まで含めた『国民全体』の名によって実現するほかなかった。……政治的に統治の正当性を主張するためには、自然法思想の流れを汲む啓蒙思想の理論的成果を支柱にするほかなかった」(三二頁)という社会観・歴史観を基礎にし、私たちが日本国憲法を積極的に活かすことの意義が強調される。同時に、憲法を主体的に捉え返し、「天皇」に関する条項を廃止する反面、前文に「友愛」を追加すべきという。さらに、「社会主義革命」の核心は経済における「生産手段の社会化」におかれ、その形態は「法拠統治」や「(歪曲)民主政」との認識を基礎に、「則法革命」として明らかにされる。
 なお、「憲法一六八条」という表現は、第九条「武力の放棄」、第一四条「法の下での平等」、第二五条「生存権」、第二八条「労働三権」、第九二条「地方自治」を合計したもので、著者はこれらの条項が「活憲」の要だという。さて、評者は労働運動にかかわってきたので、上の第二八条について私見を述べたい。この条項は労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権を規定しているが、2重の性格をもつと考えている。一方で資本家は、資本主義経済を再生産するために、労使の実質的対等を一定程度保障することが必要になり、また革命を防止するために、階級闘争を制度化し体制内化しようとする。他方で労働者は、世界史的に勝ち取られた正義としての労働基本権を行使し、また「資本の論理」を自覚した労働者は、現実を根本的に乗り越え突破することを目指していく。
 資本主義の黎明期、労働組合運動は非合法であり、暴力を伴う攻防となった。現在でも、とりわけ途上国・移行国の労働者は厳しい状況におかれているが、国際労働法を武器に闘うことが少なくない。自国政府に対し、ILO条約を批准させ、国内法を整備させ、実行させる闘いである。ここでは、政治的な制度・政策要求が立てられ、職場闘争や大衆運動に加え、選挙戦術や労働者政党の結成まで問題になるだろう。そしてこの場合も、憲法や法律で規定された選挙制度や政党制度や議会制度は、革命運動の体制内化と「則法革命」の手段という二重の性格をもち、それゆえ階級性の認識は依然として必要だと評者は考えるが、どうだろうか。
 「友愛」は特に、序章や「創語録」の「友愛労働」で論じられている。「友愛」とは、敵対者を含む<他人>をも「友として愛す」ことだという。ここでは、フランス革命直後のフヒィテによる提起が紹介され、「国王などをギロチンに掛けるのではなく生活保障する。革命は復讐ではなく、新しい制度の創造でなければならない」(五九頁)と主張される。また、「友愛」という人間精神と「賃労働と資本の対立」という社会認識とを、両立させるべきことが強調されている。さらに、革命後の労働は「愛ある労働」になるという主張が続く。
 さて、評者が「友愛」という言葉で連想するのは、大正時代の「友愛会」であり、その精神を継承したという戦後の「同盟」であり、連合傘下の「UIゼンセン同盟」である。これらの組織に対する評価は控えるが、日本的経営の中で、大企業の経営陣と労組幹部が癒着し、闘う労組や非正規労働者に敵対してきた事例は数多い。だから、<労資の対立>認識は不可欠なのだが、そうであるなら、<左派的友愛精神>といった創語が必要ではないか。ところで、わが職場の宴会の際、経営陣は最初に組合幹部の評者に酒を注ぎに来る。今後は、評者も経営陣に酒を注ごうかと、苦笑しながら本書を読了した。
佐藤和之(高校教師)
『大道』10月号に掲載されました。

友愛社会をめざす──〈活憲左派〉の展望  書評:西川伸一

 筆者は新左翼の活動家出身で、いまは小さな出版社を営むかたわら活動も旺盛に続ける古稀に達した現役闘士である。五〇年に及ぶ活動を重ねる中で、日本左翼とマルクス主義の悪弊・限界を痛感し、その突破を目指すようになる。そして、「自分の頭でしっかり読んで理解してから批判」することを信条に、独自の言葉を次々に提起して左翼の「作風」を乗り越えようとする。本書では、一九八〇年代に創語した「平和の創造」から最近の「法拠統治」まで二六の言葉が取り上げられる。それが本書前半の「創語録」をなしている。
 たとえば、「平和の創造」も一九八〇年代に筆者が言い出した(湯川秀樹も使っていたことにあとで気づく)。字面だけみると、別に新しさは感じない。しかし当時の左翼の文脈では、斬新な言葉遣いだったのだ。共産党は「平和擁護」を用い、対立する新左翼は「反戦」を掲げた。「その対立を突破する」言葉として筆者が思いついたのが「平和の創造」だ。
 「法拠統治」もおもしろい。「法の支配」がふつうの言い方だが、「階級支配」がお好みの左翼は、これを嫌ってきた。「万引きしてもいい」式の法を軽視する「作風」の源泉だ。しかし、法に依拠した統治は人類の叡智である。筆者はここでも「架橋」を試み「法拠統治」を唱える。「近代社会の政治システムは、「階級支配」ではない」ことに目覚めよと呼びかける。
 本書のタイトルにもなっている「友愛」は、一般には「自由、平等、友愛」とセットで語られることが多い。「序章〈活憲左派〉の出発」でその意味を説明している。左翼は「友愛」を忌避していたずらに党派対立を激化させてきた。内ゲバをみよ。しかも「友愛」は資本制経済の利潤追求の目的とは相容れない。なので「そこには資本制経済を超える契機が内在している」のである。
 何気なく読み飛ばしてしまう一語一語に、実はその組織の姿勢なり方針なりがにじみ出ている。筆者は党派の綱領や機関紙からそれを入念に読み込み、本質を鋭利にとらえきる。この研ぎ澄まされた言語感覚は、若い頃から文字どおり人一倍読書に励んできたことから育まれたのだろう。とりわけ、マルクス主義哲学者の梅本克己や法学者の尾高朝雄に大きな影響を受けたという。本書の参考文献には一六〇冊が挙げられている。
 本書後半の「回想」は筆者でしか書けない戦後日本左翼史である。その抜群の記憶力に舌を巻いた。
 新潟県長岡市で安保闘争の洗礼を受け高校を卒業したあと、筆者は活動家を志して上京する。最初の職場は東大医学部付属病院分院である。新左翼党派の中核派に入り幹部の清水丈夫の「一の子分」となる。革マル派に鉄パイプで足の骨を折る内ゲバも体験し、内ゲバに原則的に反対する第四インターに移る。ペンネーム「村岡到」が誕生する。機関紙の共産党批判担当となり、当時は共産党員で現在は民主党参院議員の有田芳生とも知りあう。
 第四インターを五年で抜けた後はどのセクトにも属していない。筆者自身が政治グループを立ち上げたり、研究者を組織したりと独自の歩みを続けている。その間単著を二〇冊もものし、ジャーナリストの深津真澄氏やユーゴ研究の第一人者岩田昌征氏をはじめ、交流範囲も広い。
 「事件の真相は深層にあり」として、筆者はいくつか裏話を披露している。一九六七年一〇月のデモの渦中で中核派の京大生が警備車両に轢かれて死んだ。実は警備車両の機動隊員が車両のカギを放置して逃げ、それを学生が運転したというのだ。中核派は警察が轢いたと宣伝するし、警察はカギの放置を認めるわけにはいかない。両者の「奇妙な「共犯」」が成立していた。
 私も現場にいた一件も出てくる。ソ連崩壊後、社会主義理論学会の解散がある委員から提案された。筆者は「「意図的な」会員アンケートを作り」解散を阻止したという。そこに同席していた私は、そんな策動があったとはつゆ知らなかった。だから左翼というのは油断できない!
 私は筆者を「寅さん革命家」と評したことがある。毒は吐くが憎めない。われながらぴったりのニックネームだと気に入っている。
西川伸一(明治大学教授)

友愛社会をめざす──〈活憲左派〉の展望  書評:野田浩夫

 元東京・足立区長で、都知事選挙にも出たことのある吉田万三全日本民医連副会長から、民医連の四役会議で売りつけられた本。吉田さんは恐ろしく顔が広い。元中核、また第四インターに所属していた活動家の本を自分が読むとは思わなかった。
 実は以前、健康権と生存権の関連と区別を考えていて、憲法二五条になぜ「生存権」という解説的な見出しが付されたのかを調べた際に、村岡到さんの論文にも遭遇したので、その名前は知っていた。
 村岡さんは、マルクスと同時代に生きたドイツの法学者アントン・メンガーの流れを汲む戦前の厚生経済学者福田徳三(一八七四~一九三〇年)の影響を強く受けた敗戦直後の社会党国会議員・森戸辰男が、ベアテ・シロタ・ゴードンらの作ったGHQ憲法草案を発展させて憲法に「生存権」を加えるように主張したことなど明らかにしていた。
 その後、雑誌『世界』今年四月号の「内橋克人の憲法対談:『福田徳三に学ぶ」(内橋克人×清野(せいの)幾久子)を読むと、実際に二五条を実現させたのは森戸でなく鈴木義男とわかっているようだが、いずれも社会党国会議員で民間の憲法研究会(鈴木安蔵が有名だが)の会員であるので、森戸を挙げてもあながち間違いと言うものでもあるまい。
 さて、この本は肩が凝らず読みやすい。土、日曜の東京出張の飛行機の中で読み終えた。中でも「則法革命」には同感である。
 僕自身は、社会主義革命以前の諸革命は経済革命が政治革命に先行するのに対して、社会主義革命だけはまず政治革命による権力奪取が先行して、しかるのち、生産手段の社会化という経済革命が起こるものだと教えられて来た。蔵原惟人さんなどは、それに文化革命の位置づけを加えて、新日本新書を書いていた。
 しかし、医療生活協同組合やワーカーズコープ、さらには内橋克人さんの唱えるFEC自給圏などの(非営利)協同セクター経済の可能性を目の前にみているとその定式は怪しいと僕は思うようになった。むしろ(非営利)協同セクターの拡大と影響による経済変革、政治変革が同時進行するのではないかと思ったのである。柄谷行人の『世界史の構造』(岩波書店、二〇一〇年)など読んでもその感を深くした。
 村岡さんは、どういう新しい政治革命が可能なのかという認識を問題にしている。つまるところ選挙による政権獲得であり、それはプロレタリア独裁や執権という一旦成立すれば後戻りすることのないような固定した共産党支配の確立ではない。毎回の選挙で常に政権交代の可能性があるものであり、革命といっても法に則った平和的なものであることの原理はもはや変わらないとしているのである。
 自伝としての回想部分もすこぶる面白い。科学者会議との争いでは、どうも村岡さんに分がありそうである。しかし、著名人の知遇を得ることをとても重要に思っていたり、自分の文章がどこに採用されたかの自慢を感じさせる記述が目立ちすぎる。強い自己承認の要求に衝き動かされているかの様に見られて損しているのではないかと心配になった。
 少ない年金で、生活が苦しいという率直な記述には好感が持てるが、「ヤマギシ会」に社会主義の新しい可能性を見いだして、この本の書名もそれに由来にしているなどといわれると、かつてのある毛沢東盲従主義の学者などを思い出して、「大丈夫かな、この人」と思わされる。
 ところで、圧巻は、共産党の幹部像のスケッチである。尊大なS委員長、礼儀正しいI書記局長、K代議士、Y代議士、親しみ深い上田耕一郎、吉岡吉典の両故人、聴濤弘さんなど。宮本顕治も食えないが懐の深さを感じさせる人物として描かれている。これらの記述は、蔵原惟人監修『世界短編名作選・ソビエト篇』(新日本出版社、一九七八年)に収められたエマヌイル・カザケーヴィチ(一九一三~一九六三年)の『敵』に出てくるソビエト政権幹部の描写を思い出させる。思えば、この短編もレーニンが政敵マルトフに抱き続けた友情がテーマだった。
 若い一時期に属していた党派が何かは、むしろ偶然によることが多く、どういう人間なのかには無関係なことなのだろう。
野田浩夫(医師)
(同氏のブログ「静かな日」九月三〇日より、許可を得て転載。表記の一部補正)。

友愛社会をめざす──〈活憲左派〉の展望  書評:太田啓補

 著書はサブタイトル「〈活憲左派〉の展望」の説明からはじまる。自民党が圧倒的多数を占め、さらに自民党に限らず改憲勢力が増してきた国会情勢の中で、今こそ憲法を活かす運動が必要であることを説く。日本の左翼勢力は余りにも非生産的で悲惨であった党派的対立の弊害を抱えてきたが、その歴史を無視したり忘れ去ることは未来に向かって発展することを阻害する。〈左派〉という立場を明確にすることは依然として大切であり有効でもある、という。私も同感である。したがって、左派による憲法を活かす運動は重要であり、党派の枠組みを超えた連携が今こそ求められている。
 そして「友愛社会をめざす」という本書のメインタイトルは、〈左派〉が身につけ、貫くべき大切な作風として「友愛」を立てることを強調する。とかく左翼は民主主義の理念である「自由・平等・友愛〔友愛〕」について拒絶反応を示しがちだが、著者は多くの経験から「友愛」の大切さを痛感し、「友愛社会をめざす」ことの重要性を自らの歩みを明らかにしながら、今後の課題とともに提起している。
 著書の第1部は「創語録──左翼の通説を突破する」で、著者がこの間考え出した二六の創語の意味を明らかにしている。「則法革命」「生存権所得」「立候補権」など、時代の背景に正確にマッチさせるために創られたもので、それ以前にも言葉自体としては存在したものもあるが、「なるほど」と思わされるものばかりである。
 第2部では「回想──社会主義五〇年の古稀」で、社会主義者として生きてきた半世紀を綴っている。高校を卒業後上京し、労働運動や政治活動を通じて社会主義者へと成長し、現在では「実践する思想家」「思想する実践家」(上島武さんの本書についての評)といわれるにまで成熟している。新左翼党派を二つも体験するなど多岐に及ぶもので、幅広い人間関係を形成し、さまさまな思想から学ぶ過程でもあったようだ。
 自叙伝として発刊された新著『友愛社会をめざす』が、〈活憲左派〉の展望を拓くものになることを期待する。
太田啓補(『大道』編集委員)
おかやま人権研究センター『人権21』二〇一三年一〇月号に掲載。

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