ロゴスの本

貧者の一答 どうしたら政治は良くなるか 書評:澤藤統一郎

石川啄木に通じる「貧者の一答」

 本日〔一二月七日〕は、村岡到さんからのお誘いで、討論会と忘年会〔望年会〕に出席させていただきました。討論会は、村岡さんの近著『貧者の一答──どうしたら政治は良くなるか』のタイトルをそのままテーマにするものでしたが、これがたいへん充実して面白かった。結論が決まっている予定調和討論はまことに味気ないもの。権威のない場での、誰もが正解をもたない自由な意見交換なればこその面白さでした。
 多くの人が、憲法の危機、平和の危機、日本経済の危機を語って、今回の総選挙の重要性を強調しました。何としても安倍政権を倒さねばならない。その熱気が今日の盛会となったと思います。
 ところで、この著書のなかで、村岡さんは書名の解説に触れて「私は『貧者の味方』ではなく、貧者の一員であり、その立場から生きる意味を考え、主張する」と述べています。これは力強い宣言。存在が意識を規定する以上、この世の矛盾の根源を撞く発言と行動は「貧者の味方」ではなく、「貧者」自身から発せられることになりましょう。
 思い起こすのは、私と同郷の歌人・石川啄木のこと。没後一〇年(一九二二年)にして彼の故郷渋民に「柳青める」の歌碑が初めて建立されたとき寄進者の刻名はなく、ただ「無名青年の徒之を建つ」と刻まれていました。これは彼が「主義者」として知られていたからです。
 その「主義者」としての彼は、自らを「貧者」ととらえていました。そのような歌のいくつかがあります。
 わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く
 はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
 友よさは 乞食の卑しさ厭ふなかれ 餓ゑたる時は我も爾りき
 以下は、そのような彼であればこその歌のいくつか。
 平手もて吹雪にぬれし顔を拭く 友共産を主義とせりけり
 赤紙の表紙手擦れし国禁の書を 行李の底にさがす日
 「労働者」「革命」などといふ言葉を 聞きおぼえたる五歳の子かな
 友も妻もかなしと思ふらし 病みても猶革命のこと口に絶たねば
 地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ 秋風を聴く
 時代閉塞の現状をいかにせむ 秋に入りてことにかく思ふかな
 青年啄木が自らを貧者の一員としそれ故に社会の矛盾に憤っていたことが、いたいほど伝わってきます。決して高みから「貧者の味方」を気取る目線はなく、自らがもがき苦しんでいることを率直に表現しているところが啄木の魅力なのでしょう。
 この世の矛盾とは、結局は貧困の存在に行き着くのではないでしょうか。富の分配における不平等をいかに克服するかが究極の政治の使命。現在の社会が、富の偏在を産み出しその不平等を肯定する基本構造をもっているとき、まさしく「貧者の一答」はこの不平等をいかに克服するかの視点をもたざるを得ません。
 それこそが、「わが抱く思想はすべて金なきに因する」必然だと思うのです。青年石川啄木が長生きをしていたら「貧者の一答」を著したかも知れません。
 今回の総選挙でも、投票者がこの社会の基本構造のどこに位置するかによって、合理的な政治的選択は決まって来るのではないでしょうか。貧者は、「金なきに因し」て、「はたらけどはたらけど猶楽にならない生活」を変えるために、貧者の味方を看板にしている革新政党に投票すべきが当然の理。今の世に啄木がありせば、躊躇なく共産党に投票することでしょう。
 もちろん、その対極にある大企業経営者・大金持ち・大資産家は、自民党に投票するのが「正解」。しかし、圧倒的多数の「サラリーマン・工場労働者・公務員・自由業者・自営業者・農漁民・中小企業者」は、貧者の側と利害をともにするはず。
 問われているのは、貧困・格差を産み出し拡大再生産する自公政権の経済政策にアクセルを踏むのかブレーキをかけるのか。税制、雇用、賃金、医療、教育、社会福祉等々の各課題で、不平等をなくす方向を目指すのか否か。
 きっと、「主義者」啄木も、「ヒューマニスト」賢治も、強く「安倍ノー」というでしょう。そして、貧者として、あるいは貧者に寄り添おうとする姿勢から、共産党への投票を選択するに違いない。村岡さんの著書と発言からも、本日はそんなことを考えました。(二〇一四年一二月七日)
澤藤統一郎(弁護士)

☆澤藤統一郎氏の憲法日記から許可を得て転載しました。元のタイトルは、「今の世に啄木あらば勇躍して共産党に投票すならん」ですが、本誌(探理夢到10号)で変えました。

貧者の一答 どうしたら政治は良くなるか 書評:武田信照

日本政治論、農業経済論、社会主義論を斬新に論じる

 村岡到氏の文筆活動は実に旺盛で関心の幅も広いことは、昨年の『友愛社会をめざす』(ロゴス)などこれまで活字化された論著の数とそのタイトルを一瞥しただけで分かる。それは本書でも述懐されている、大切だと考えたらすぐにも論文にして発表するというやり方およびさまざまな分野の事象を関連づけて考えることを好むという思考法の産物であろう。これが村岡氏の文筆活動の基本的スタンスであり、それが可能なのは勘どころを素早く掴む能力のゆえであろう。異なるテーマと多様な分野の文献の検討からなる本書も、このスタンスから生みだされた果実である。
 書名の「貧者の一答」は、「貧者」による「一つの答」を意味する。村岡氏はこれについて、自らが貧者の一員であり、その立場から生きる意味を考えたといい、また「一答」という創語はこれが正解だと強調する愚を避け、難問への私論であり試論であることを明示するためだという。この姿勢が裏面で含意しているのは、他に多くの「答」がありうること、正解に到達するためにはこれらの多くの「答」の間での相互批判が必要であるということである。「討論の文化」が強調される所以である。これはJ・S・ミルの『自由論』の議論と通底する。ミルは思想・言論の自由について、少数意見が真理である場合が少なくないこと、また対立する意見のそれぞれが「半真理」である場合が多いことを挙げ、自由な議論が真理への接近に果たす役割を強調していたのであった。

 本書は三部構成である。第一部は日本政治論、第二部は農業経済論、第三部は社会主義論である。各部の議論のキーワードを示しておくと、友愛、保護、協議ということになろうか。
 村岡氏は日本政治の活路は友愛の定位にあるという。選挙に基づく「代議民主政」を重視する立場からどの候補者に投票するかを常に考えるメリットとその選定基準が列挙され、関連してこの一一月の沖縄県知事選における翁長雄志氏の勝利の重要性が強調されているが、この基準の第一に挙げられているのが、〈脱原発 〉〈活憲〉と並んで、鳩山友紀夫氏が主唱する〈友愛外交〉である。また民主党政権瓦解の要因として、予算財源の問題、官僚制の壁などと並んで党内部の脆弱性が挙げられているが、その象徴が当初掲げられていた「友愛精神」の言葉がその後の「綱領」で消えたことに示される基本理念の欠如である。

 さらに日本政治の主要課題が脱原発から司法制度改革まで八項目挙げられているが、「諸課題を貫く〈理念〉は友愛」であることを明確にしなければならないとされる。友愛は、左翼にとっては歴史的に労資対立をカムフラージュするものとして忌避されてきたが、労資対立の認識と両立可能なだけでなく、その再定位によって社会主義像は深さを増し幅を拡げるに違いないと評価される。

 確かに友愛は上級の道徳感情であり、それによって結合される人間関係は快適である。その意義の強調は分かる。問題は友愛だけで見知らぬ多数者からなる大きな社会の結合が可能かという点であろう。この点で、利己心と結びつきながらその高慢を制御する「同感」についてのアダム・スミスの倫理学が今一度再考されてよいであろう。

 第二部の主題は農業経済学者石渡貞雄氏の教示を継承する「農業=保護産業」論である。農業は工業と違い生命ある有機体を生産する。だから自然を離れて農業はありえず、自然のリズムに強く従わざるをえない。工業製品の生産速度とは比較にならず、工業と同じ土俵では存続すら危ぶまれる。この農業・工業の本質的相違の認識が保護論の前提にある。こうした事情のためどこの国でも形態と程度の違いはあれ、歴史的に農業保護主義は支配的傾向であったことが指摘されると同時に、保護政策を消極的なものとしてではなく、農業=保護産業として明確な意識化・自覚化がなされなければならないと主張されている。聞くべき主張であろう。こうした観点からマルクスおよびマルクス主義の農業観が手厳しく批判されていて、私にとって賛否分かたれる問題が論議されているが、それについてはここでは省く。

 こうした理論的主張とともに、日本農業の現状が簡単に紹介され、その再生の方策の目玉として「農業保護税」の政策が提示されている。それは関税にかわって輸入後の農産物に保護税を課し、それを農家の生活保障にあてるという構想である。輸入農産物は課税分高くなり関税障壁と類似の機能をもつが、加えて保護税分が支払われるという点をどう考えるか。それはともかくこれは農業を関税障壁によって保護するか裸の市場競争に委ねるかという二者択一的選択にとらわれない政策模索の一つとして評価すべきであろう。

 紙幅の関係から、第三部については今は顧みられることの少ない社会主義経済計算論争の復位が試みられ、また社会主義経済での生産・分配システムについて貨幣と市場を超える道として「協議生産」および「生活カード制」という興味深い構想の提起がなされていることを指摘するにとどめる。

 以上のどの論点も問題提起的で、「討論の文化」を要請するものといえる。
武田信照(愛知大学名誉教授・同元学長)
 〔「図書新聞」一二月六日号に掲載、許可を得て転載する〕

貧者の一答 どうしたら政治は良くなるか 書評:平岡 厚

 サブタイトルが「どうしたら政治がよくなるか」である本書は、古くからの本会会員である著者が、現在の日本の政治、農業、および経済の諸問題に対する「一答」を提起したものである。著者の主張は、まえがき(―「資本主義の終焉」にさいして)に続く、停滞する政治の現状と政治の理念(第I部)、農業の根源的意義(第II部)および協議経済の構想(第III部)に展開されている。

 第I部は3論文からなり、第1論文では「次の選挙でどの候補者に投票したらよいか?」を明らかにする意味と基準を提起し、第2論文では2009年の総選挙で誕生した民主党政権の失敗を考察した上で、第3論文において、今日の政治が貫くべき理念として「友愛」の重要性を訴えている。

 第II部は著者の農業論であり、著者の旧著作(『生存権・平等・エコロジ-』、白順社、2003)に収録されている2篇を含む3論文の内容を含んでいる。著者はここで、農業の意義を論じ、在来のマルクス主義における農業の扱いを批判的に検討した上で、日本農業再生に向けた提案を行っている。

 第III部は、著者による社会主義経済の構想で、以前に著者が編集した『原典 社会主義経済計算論争』(ロゴス、1996)を解説した「社会主義経済論争の意義」と、2008年に発表した「社会主義の経済システム構想」の2論文からなっており、前者において触れられているミ-ゼスらの社会主義経済不可能論(「合理的経済は、価値、市場、貨幣を必要とするので、それらが廃絶された社会主義経済は不可能である」というもの)に対する反論(「生活カ-ド」制と協議生産にもとづく経済体制の提起)が後者である、という形になっている。

 第I部については、以下に、そのキ-ワ-ドである「友愛」に的を絞って論じる。著者が指摘するように、日本国憲法でも政党の綱領でも、「自由」と「平等」は、ある程度は登場するが、フランス革命において、それらの理念と同等であった「友愛」は全く出てこないのは、確かに不自然である。「現在の日本のような発達した資本主義経済の立憲民主制国家において、生産手段・資本の私有が一般には存在しない社会主義経済への体制変換(政治制度は不変)である則法革命・平和革命を目指す左翼こそ、「友愛」を再定位すべきである」という趣旨には同感である。そのためには、現在の先進資本主義国の社会に一応は適応している正統派を含め、少し意見が異なるだけの同士・仲間を敵扱いする現象が生じた原因(何故、そのような「文化的遺伝子」のようなものが伝承して来ているのか)についての検討が必要であろう。その点で、著者には、共産党の組織論(民主集中制)について触れても欲しかった、と思う。

 第II部においては、著者は、「農業は、生命ある有機体としての食料を生産する産業として、工業とは本質的に異なる面を持っているので、工業と同じ基準で扱われてはならず、保護されるべきものであると位置づけられなければならない」と主張する。また、在来のマルクス主義が、資本家階級に対抗する労働者階級のみに注目して、農業を工業に従属する存在とみなしてしまったことを批判している。私は、これらの指摘も正当であると思う。おそらく、蒸気機関が初めて登場した産業革命の時代に、当該思想・運動の創始者たちが、農業も比較的短期間で工業化されるであろう、と考えたためであろうが、この予想は大きな誤りであった。ここでの著者の提起は、従来の労働者だけを人間解放の主体と認識するのでも、単純に自然に帰ることを志向するのでもなく、「農業と工業の新しい結合」を追求して行くことである(具体的提案はない)。それについて、長年、生化学を専攻して来た私は、近年の生物環境工学会等をにぎわしている、植物工場という新しい技術の出現・発展に注目している。これは、近未来の農業分野で、新産業革命的激変を起こし得る技術であり、歴史的スケ-ルでは遠くない将来、その多くは空調が効いた無菌の作業場に白衣を着て入って頭脳労働と肉体労働が結合した仕事を行う高学歴層で、自宅からの出勤先は在来の農業から引き継ぐ農地跡とは限らないような新興農業(労働)者階級を増生させる可能性がある。そうなった場合、社会主義を目指す政党・政治勢力は、彼(女)等を味方として獲得するような対応をすべきであると思われる。

 第III部の内容(著者の社会主義論)は、多くの会員諸氏が御存知であろうので、詳しくは述べない。私の感想は、「市場経済は永続すべきではなく、また、それを克服する方策として、国営計画経済は永久にダメであろうが、著者の唱えるような、交換機能は有るが蓄財機能は無い非流通カ-ドで貨幣を置換する、というような戦略はあり得る。しかし、体制としての資本主義が生きている状態から出発して、直接にそれを目指すのは無理筋であるので、先ず、生産手段・資本の所有は一般には存在しないが、独立採算制の事業所が活動する市場があり貨幣が流通する市場社会主義を目指すのが妥当であろう」というものである。

 以上のような内容は、ソ連末期にゴルバチョフが唱道した「社会主義への討論の文化」を再起動・定着させることに貢献できるものである。鳩山由紀夫・元首相等からの私信が、先方の許可を得て掲載されており、それらの内容からも、著者が、自分とは意見・立場を異にする相手とも、真剣で友好的な論議を行うことを望んでいることがうかがえる。未読の会員諸氏も、是非、入手されてお読みになり、「討論の文化」を進めて行くことをお勧めしたい。
平岡 厚(元・杏林大学准教授)
社会主義理論学会会報2015年4月に掲載されました。

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貧者の一答 どうしたら政治は良くなるか 書評:西川伸一

 「貧者の一灯」というたとえがある。真心のこもった貧者による供養の一灯は、富者の万灯にも勝る功徳があることを教える。それに想を得て、筆者は本書に『貧者の一答』なるタイトルを付けた。現代の日本の政治、農業、そして経済が直面する難問に対して、「貧者」による「一答」を提起した。
 「一答」であるから、筆者には「これが正解だ」とおごる気持ちはみじんもない。本稿では、とりわけ第1部の「停滞する政治の現状と政治の理念」について、私が注目したポイントと若干の私見を述べることにする。
 本書のサブタイトルに「どうしたら政治は良くなるか」とある。端的にいえば、そのためには政治を良くしてくれる政治家を当選させなければならない。もっといえば、「政治信条を示す」ためではなく、「当選の可能性を優先する」(二九頁)投票行動が求められる。
 今年二月の都知事選で私はその旨をある週刊誌で主張したところ、投書欄で袋だたきにされた。しかしその後、私は次のような「前例」があることを知った。
 一九五五年二月の総選挙に際して、自民党へ合流する直前の日本民主党と自由党の獲得議席が、改憲を可能にする「三分の二以上」に達する事態が懸念された。これを阻止するために、日本共産党は投票日直前までに三九人の立候補者を辞退させ、六〇人を擁立するにとどめた。「共倒れをふせげ」との戦術がとられたのである。それは左派社会党候補者の当選に利したと考えられ、保守勢力に「三分の二以上」の議席を獲得させないことに貢献した。
 もちろん、意に沿わない候補者に投票することに心理的抵抗はあろう。そこで筆者は、その場合には「色鉛筆による着色投票」を提案する。これは無効票にはならない(五四頁)。
 二〇〇九年の総選挙で政権交代を選んだ有権者は、民主党政権によって「政治は良くなる」と強い期待を抱いたに違いない。だが、その期待は無残なまでに裏切られた。筆者は民主党政権の失敗を論じた何冊かの書籍も参考にして、瓦解の要因を五点にまとめている。財源の根拠なきマニフェスト、官僚制の分厚い壁、民主党内部の脆弱性、日米安保の壁、そして、社会にはびこる既成の壁である。
 三点目を取り上げたい。二〇〇九年一〇月二六日、鳩山由紀夫首相は国会での所信表明演説で、「一人ひとりが『居場所と出番』を見いだすことのできる『支え合って生きていく日本』を実現するために、その先頭に立って、全力で取り組んでまいります」と述べた。皮肉なことに、民主党は「議員一人ひとりが『居場所と出番』を見いだすことのできる『支え合って生きていく民主党』を実現」できなかったのだ。
 二〇〇九年の総選挙で民主党は三〇八議席を獲得した。参院議員もすでに一〇〇人以上を抱えていた。四〇〇人からの議員に与党議員として応分の「居場所と出番」を与える必要があった。さもなければ、「しかるべく」処遇されない議員たちの嫉みが党内に充満し、やがて分裂の火種になる。「国民の生活が第一」などという政策の相違は、それを正当化する外皮にすぎない。実際は、党内は日向組と日陰組にはっきり色分けされた。日陰組を「救済」するために、野田佳彦首相は一年四か月弱の在任中に三度の内閣改造を強いられた。
 この構造的原因は第一党に過剰な議席を与える小選挙区制にある。筆者のいう「歪曲民主政」(五二頁)の弊害がここにも見て取れる。巨大与党は党内ガバナンスに苦慮することになる。いまの与党自民党も例外ではない。もっとも、与党の経験が豊富な自民党には、議員への「居場所と出番」の配分について民主党よりは知恵はあるだろうが。
 さて、「政治〔が〕良くなる」ための理念として筆者が掲げるのが「友愛」である。言うまでもなく、フランス革命のスローガン「自由・平等・友愛」に由来する言葉だ。筆者は「『友を愛す』だけではなく、〈他人〉を『友として愛す』と明確にしたほうがよいのではないか」(七四頁)と語りかける。さらに、ドイツの哲学者フィヒテが、革命は復讐ではなく新しい制度の創造だと認識していたことを紹介する。
 翻って、日本の左翼世界は対立と分裂を繰り返し、内ゲバの殺し合いまで演じてしまった。「もし、〈友愛〉が貫くべき重要な理念として掲げられていれば、同じ批判を加えるにしてもその質は異なっていたに違いない」(七九頁)との反省の弁が、新左翼の活動家だった筆者の口から出ると千鈞の重みが漂う。そして、こう結論づける。「私は、〈友愛〉の再定位によって、社会主義像はいっそう深さを増し、幅を拡げるに違いないと確信している。従来は見向きもしなかった層や世界とも友好的に交流することが、当面の政治的必要のレベルを超えて原理的に可能となるからである」(八四頁)。
 巻末には、鳩山友紀夫元首相の筆者宛私信が転載されている。ちょっと感動的な手紙だ。従来の筆者からすれば、鳩山氏は「見向きもしなかった層」に属する人だろう。〈友愛〉が垣根を越えた交流を実現させたのである。
 「貧者の一灯」とは至誠の尊さを教える警句である。本書の行間からはまさにそうした筆者の姿勢が実感できる。
西川伸一(明治大学教授・政治学)


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