ロゴスの本

日本共産党をどう理解したら良いか 書評:佐藤和之

「大道」5月号=2015年5月1日号に掲載されました。

 かつては新左翼系の出版社が、日本共産党の戦略を批判する書物を、頻繁に発刊していた。また、近年では小熊英二など若手研究者らが、戦後日本の社会運動とそのイデオロギーを、分析・総括している。前者は、「スターリン主義打倒」「日共解体」といった立場から、日本共産党の戦略・戦術を批判していた。他方、多くの若手研究者らの場合、戦後の社会運動を主導した党派や知識人の言説を、戦後レジュームの枠組と合わせて分析している。

 これに対し本書は、新左翼系党派の活動家であった著者・村岡到が、日本共産党との「批判的連帯」を求めた問題提起であって、その「打倒」「解体」を目的としたものではない。左翼運動家としての著者が内在的批判をめざしたもので、研究者やジャーナリストによる第三者的な立場からの共産党研究でもない。あるいは、日本共産党に加入して主体性を貫こうとした梅本克己や、その内在的批判に関心がなかった宇野弘蔵とも立場を異にする。

 それゆえ方法としては、日本共産党の綱領など重要文書と向き合い、それを批判的に検討するというスタイルをとっている。また、「あとがき」で「否定面の理解をともなわぬ肯定が弱いものであるように、肯定面の理解をともなわぬ否定は弱い」という梅本克己の言葉が引用されているが、本書全体にその姿勢は貫かれている。さらに、左翼が理論的抽象の過程で捨象してしまった要点を、随所で批判の武器として活用していることも特徴だ。なお本書は、2003年に出版された前著『不破哲三との対話』(社会評論社)の続編として位置づけられている。

 本書の論点は多岐にわたるが、「第Ⅰ部 日本政治と日本共産党」に続く「第Ⅱ部 日本共産党の理論的内実」では、1989年の昭和天皇死去と平成天皇即位、1991年のソ連邦崩壊、そして2011年の福島原発事故以降とくに明白になった、日本共産党の理論的変質が取り上げられる。すなわち、天皇制をめぐる問題、ソ連邦の評価や革命戦略の問題、そして生産力主義と原子力政策の問題である。

 評者は、日本共産党が「ソ連共産党の解散が声明されたときに、これを覇権主義の党の解体として歓迎」したことは知っていたが、現綱領では「社会主義革命」を否定し「社会主義的変革」と規定していることは知らなかったので、まずそれに驚いた。これを著者は、自説の「ソ連=党主指令社会」論と<則法革命>論を、理論的武器にして批判する。

 また、日本共産党は福島原発事故に直面するまで、「原子力の平和利用」を提唱していたことは周知の事実である。これを著者は、<脱経済成長>という視点の欠如という次元まで掘り下げて批判する。そして天皇制批判に関して、現在の日本共産党は及び腰だと言ってよい。但し、天皇制批判に関しては、現在の左派運動圏全体として弱くなっており、著者は菅孝行らの先行研究から学ぶことを推奨している。

 「第Ⅲ部 不破哲三との対話を求めて」は、現在の日本共産党において、圧倒的影響力をもつ不破哲三の理論を、社会変革に不可欠な論点から検討している。すなわち、革命戦略や革命闘争形態の問題、党組織論の問題、自衛隊をめぐる問題、そしてスターリンやローザ・ルクセンブルクらに対する評価の問題である。

 日本の対米従属と民主主義革命を説く党内主流派が、日本帝国主義の復活と社会主義革命を主張する党内反対派にも配慮して打ち出されたのが、所謂61年綱領の「二段階連続革命」論である。ところが04年の綱領改定で、民主主義革命から社会主義革命への連続性は否定され、社会主義が完全に彼岸化された。これも評者は知らなかったので、まずこの点に驚いた。著者は、今では姿を消した「敵の出方」論を含め、やはり<則法革命>論を根拠に批判していく。

 さらに、「田口・不破論争」を最後に議論されなくなった民主集中制をめぐる問題を、「複数前衛党と多数尊重制」という自説から論じている。また、日本共産党は憲法9条について語っても、自衛隊に関する態度は曖昧だ。これに著者は、「国連指揮下の平和隊」創設構想を対置する。加えて、不破のスターリン批判においては、決してトロツキーの「社会ファシズム」論批判に触れない点を指摘している。

 以上が、本書の主要な論点である。評者もそれらに対する私見を述べたいところだが、ここでは本書が示唆する共産党との「批判的連帯」について考えたい。まず労働運動を見れば、同一経営体に対して複数労組が共闘関係を構築したり、組織統合を実現する例が存在する。さらに国際的に見れば、ナショナルセンターのレベルでも、共産党系と民主労組系とが合併した例も皆無ではない。サンディカリズムの名の下に合併した、全モルドバ労組連盟(CNSM)がそれである。

 ところが2013年以降、新しい労働社会の展望が内部共有できてないCNSMは、メーデーの取り組みを放棄してしまった。現在メーデーの集会・デモは、共産党と社民党が別々に組織している。モルドバは内戦と暴動を経験し、政権交代と政党の乱立が続いているが、共産党と社民党は一定の社会観を共有するも、正式な共闘関係は形成されていない。こうした事態は、社会変革をめざす運動にとって、何を意味するのか。

 連帯の重要性は言うまでもないが、そのためには新しい社会観・世界観まで、一定程度は共有する必要がある。個別課題の実現をめざす運動体ならまだしも、労組のナショナルセンターや全国的な政党・党派であれば、直面する現実の構造的認識と革命戦略までが常に問われる筈だ。その共有は困難ではあるが、討論を通じた「批判的連帯」関係の形成は不可欠であり、それ以外の関係こそ脆い。そして、旧ソ連邦構成共和国のモルドバに限らず、各国に存在する共産党と向き合うことは、依然として不可避なのである。

 なぜ今、日本共産党と向き合うことが必要であり、革命論や組織論まで議論しなければならないのか。そうした問題意識をもちながら、本書を一読することを勧めたい。また付録として、石橋湛山のリベラリズムの思想が紹介され、さらに水野和夫らの著作の書評が収められている。活発な討論と幅広い読書の重要性も、本書は随所で教えてくれる。

佐藤和之 (教育労働者)

日本共産党をどう理解したら良いか 書評:斉藤日出治

『葦牙ジャーナル』第117号=2015年4月15日に掲載されました。

 昨年12月の総選挙では自民・公明の与党が大勝し、野党勢力は軒並み後退した。そのなかにあって、共産党は議席数を大幅に増やして健闘した。本書はこの共産党の躍進をどうとらえるべきかについての著者の37年にわたる日本共産党の分析・批判を踏まえた提言である。

 著者はまず「反共風土」が根強い日本の政治文化の中で、一貫して非転向を堅持したその姿勢を評価する。後発資本主義国として近代化を急速に達成するために国家主導の経済発展とアジアの植民地支配という道をまい進した日本の近代史の道に抗って、その歩みにブレーキをかけた共産党の歴史的意義を著者は高く評価する。

 第Ⅰ部では、共産党の党勢の実態を具体的数字に挙げて明らかにしている。そして、新左翼の全般的な退潮とは裏腹に、議会勢力としての躍進が著しいことを指摘する。だが他方で、その逆に今日の共産党の理論的な衰退が著しいことが問題視される。第Ⅱ部で共産党のこの理論的衰退が総括的に論じられる。その弱点は、なによりもグローバル化と新自由主義が急進展する時代の中にあって、この流れを転換するための実効力あるオルタナティブな方策を提示できないことのうちに端的に表れている。たとえば、社会主義革命を旧態依然たる国家権力の奪取としてとらえ生産関係の変革のための経済の仕組みについての方策を具体的に提示できずにいること、成長至上主義に抗する脱経済成長のシナリオを、消費の質、所得分配のありかた(ベーシックインカムなど)の変革というかたちで展望する道を提示しえていないこと、「原子力の平和利用」の流れに乗り、かつソ連による原子力開発を擁護してきたために福島の原発事故を契機とした原発政策の見直しの提起が決定的に立ち遅れている、といった諸点が指摘される。
 

 そして、この理論的な弱点が集約的に表れているのが、戦後日本の象徴天皇制に対する共産党の向き合い方である。著者は、共産党がアジアの植民地主義と侵略戦争を推進する原動力となった天皇制の歴史的な責任を問わないこと、主権在民とされる戦後日本社会において天皇制がいかなる役割を果たしてきたかについての分析を欠いていること、とりわけ戦後日本社会における米国の支配を許した天皇制の役割に言及しないこと、を指摘する。そこには、日本が天皇制という国体の護持と引き換えに敗戦を受け入れたという戦後の原点の問題がはらまれているが、共産党はそこに切り込む視座が決定的に欠落している。アメリカ帝国主義への日本の従属を指摘しながら、その従属と天皇制とのかかわりが無視されるのである。

 著者は、このような共産党の理論的衰退の主要因を、不破哲三氏が長期にわたって共産党の理論的バックボーンとして君臨し続けたことに求め、不破氏との討論を試みる。

 以上の理論的弱点のうちに共産党の政党としての特質が如実に露われている。共産党は自分流の社会主義の枠を超えた広範な社会運動や多様な知的実践の活動に対してみずからを開いて、その交流を通して自らの理論を練り上げようとする努力を怠ってきた。そして、そのようなコミュニケーションの拒否をあたかも共産党の存在理由であるかのようにしてみずからを正当化した。外部にみずからを開いて社会運動や知的実践との交流がおこなわれているならば、このような理論的視野の狭さや閉鎖性を克服することは十分になしえたはずである。

 その意味で、本書末尾の付録として石橋湛山のリベラリズムの思想を紹介しているのは興味深い。20世紀前半の日本が大アジア主義を掲げて「大東亜戦争」へと突き進んでいく流れに抗して、大アジア主義の幻想性を指摘し、アジアに対する植民地主義と侵略戦争への道を放棄するよう唱えた石橋の「小日本主義」の理念は、当時の日本社会が進むべきオルタナティブな道を現実的に提示する力にあふれていた。著者は石橋のこの理念がリベラリズムの思想を通して社会主義へといたる道を開く可能性をはらんでいると言う。それは旧来からの暴力革命と計画経済という統制型の社会主義革命ではなく、リベラリズムの思想をくぐりぬけた社会主義の道を照らし出す。著者はみずからが提示する社会主義の理念、つまり「則法革命」「協議経済」の実現の道筋をこのリベラリズムの思想に託そうとする。

 本書は共産党という政党の再検討を通して、日本の社会がどこに向けて自らを解き放つのかという方向性を探るうえで貴重な提言となっている。

斉藤日出治 (大阪産業大学経済学部教授)

日本共産党をどう理解したら良いか 書評:河上 清

社会主義への課題を問う

 村岡到さんは、新左翼諸党派や共産党から分裂した諸党派が日本共産党を「反革命」としてバッサリと全面否定していた一九七〇年代末から、当時、第四インターに所属しながら「共産党との対話」を提唱してきた。しかし、本書は、単に日本共産党研究にとどまらず、日本の社会の変革、とくに社会主義をその未来像として考える人々が共通して解決しなければならない問題を提起しているように思う。
 その象徴ともいえるのが、「第Ⅲ部 不破哲三氏との対話を求めて」の五つの「不破哲三氏への質問」である。
 A 「敵の出方論」はどうなったのか?
 B 組織論をなぜ説かなくなったのか?
 C 「二段階連続革命」論の否定と社会主義との関係は?
 D 自衛隊をどうするかをなぜ説明しないのか?
 E 『スターリン秘史』の重大な欠陥

 「敵の出方論」と聞いて、「懐かしいな」「久しぶりに聴いた単語だ」と思うのは、左翼運動にかかわってきた四〇歳代後半以上の人かもしれない。とくにA~Dの話題は、八〇年代頃までに左翼運動にかかわった人々であれば、共産党系であろうと非共産党系(新左翼、中国派、ソ連派等)であろうと、一度はあつく議論し、論争したテーマであったはずだ。しかし、ソ連、東欧の崩壊やその後の情勢の大きな変化と左翼運動の衰退のなかで、あまり議論されなくなってきた。共産党自身も、平和革命か暴力革命かという問題、民主集中制の問題、民主主義革命と社会主義革命の関係、自衛隊の解消等の従来共産党自身が構築してきた理論が今の社会の中で説得力を持ちにくいと感じているのではないだろうか。また、かつて共産党と激しく論争した側もこれらのテーマについて現代的に説得力のある理論を提起している党派はないと思われる。
 このようななかで村岡さんは、これらの回答として、則法革命、協議経済、複数前衛党、などの問題提起をしている。これについては、賛否両論あると思うが、従来の枠組みを突破する問題提起はおおいに検討に値する。

 重要な「脱経済成長」の視点

 また、第Ⅱ部「日本共産党の理論的内実」のなかで触れている「〈脱経済成長〉の視点の欠落」という指摘も重要である。従来のマルクス主義の枠組みでは、資本主義的生産関係が生産力のこれ以上の発展の桎梏になっているから、この生産関係を社会主義的生産関係によって置き換えることにより、生産力を「解放」し、その一層の発展を実現するという考え方がベースとなってきた。しかし、産業革命以後、とくに第二次世界大戦以後の生産力の発展、人間活動の大きさは地球環境に多大な負荷をもたらしている。この現状を変革していくうえでは、持続可能な社会経済の仕組みとそのための技術の開発、地域ごとの循環型社会の構築、とくに農業やエネルギーの地産池消などの仕組みづくりと併せて貧富の格差の解消などが必要となってくる。だが、共産党の政策をみると、生産力主義的な枠組みを脱し切れていない。

 近親憎悪と左翼の衰退

 付録「石橋湛山に学ぶ──リベラリズムの今日的活路」も大変興味深かった。村岡さんは、〈友愛〉の大切さを自覚し、石橋湛山の生き方からも、「愛と説得による多数派の獲得こそが革命実現の道」であることを学んだという。これまでの左翼運動は、「憎しみのるつぼ」という歌に象徴されるように憎悪を運動の出発点としてきたのではないだろうか。虐げられた者の、虐げるものへの憎悪は当然であり、そこが運動の出発点となるのは何の問題もない。ただ、左翼運動の多くは、本来味方とすべき人々への敵対、左翼陣営内の近親憎悪、同じ党派、組織内部での憎しみや敵対を繰り返してきた傾向がある。運動をすすめていけば、同じ仲間同士でも意見の対立が起こることは避けられない。しかし、対立する相手をすぐに、「敵の手先」だとして敵対的矛盾へと転化してきた歴史が、どれほど左翼運動を衰退に向かわせてきたのか、改めて考えねばならない。

 以上のように大変興味深い本であるが、もっと深めたい点もある。村岡さんは、共産党内の論争がなくなり、理論活動が不破氏だけの独断場になっていると指摘している。たしかに、その側面は否定できないし、かつての「田口─不破論争」のような論争も久しく聞かない。ただ、よくよく見てみると、共産党系の学者や活動家のなかには、従来の枠組みを突破するようなユニークな研究や理論活動をされている人は結構いるように思う。最近は、かつてのような組織的・思想的締め付けも弱まっているようで、村岡さんをはじめ、非共産党系の活動家と気兼ねなく交流する人々も少なくない。これらの動きのなかに、かつては激しく論争されながら、現在はあまり語られていない前記のA~Dの課題や〈脱経済成長〉、持続可能な地域づくりについて、新たな論議を起こす時代に来ている。村岡さんの問題提起も含めて交流し、社会主義についての新たな理論を提起していくことが課題になるのではないかと考える。「愛と説得による多数派の獲得」が求められている。

河上 清(「労働通信」編集委員)
季刊『探理夢到』 13号掲載

貧者の一答 どうしたら政治は良くなるか 書評:山田宏明

日本共産党は今でも「革命の党」なのか 「図書新聞」3201号(4月4日)に掲載されました。

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